第8課 安河内アキラ

2017年 第2期 「わたしの羊を飼いなさい」 ペトロの手紙Ⅰ・Ⅱ

暗唱聖句  「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」Ⅰペトロ2:24

今週の聖句  Ⅰペトロ1:18、19、コロサイ1:13、14、イザヤ53:1~ 12、ヨハネ11:25、詩編18:50、Ⅱペトロ1:1

今週の研究  ペトロの手紙Ⅰをここまで学んできたので、内容の背景がどうであれ、扱っている具体的問題が何であれ、ペトロの目がイエスに向けられていることは、すでにはっきりしています。ペトロの文章のあらゆる部分に、イエスが染み込んでおられます。それはこの手紙に織り込まれた金の糸です。私たちは今週、ペトロの手紙Ⅰの全体を振り返り、それがイエスについて明らかにしていることを詳しく調べます。

火曜日: 確かに、死者の中からのイエスの復活は、私たちも復活しうることの保証です。(Ⅰコリ15:20、21)パウロはそのことを、「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」(Ⅰコリ15:17)と述べています。しかし、イエスが死者の中から復活されたので、彼は死そのものを打ち破る力があることを示されました。それゆえ、クリスチャンの希望は、キリストの復活という歴史的な出来事の中にその根拠を見いだせます。キリストの復活は、終末時代における私たちの希望の土台です。
その希望と約束がなければ、私たちはどうなるでしょうか。キリストが私たちのために成し遂げられ たすべてのことは、復活の約束において完結します。それがなければ、私たちにはどんな希望があるでしょうか。なぜなら、私たちは、一般的なキリスト教信仰とは違う、死者が墓の中で眠った状態にあることを知っているからです。

水曜日: 旧約聖書の中で「メシア」「油を注がれた者」という言葉が使われている次の聖句を読んでください。詩編2:2、18:51(口語訳18:50)、ダニエル9:25、サムエル記上24:7(口語訳24:6)、イザヤ45:1。ペトロは主に触発されて、イエスをメシアと宣言しましたが(マタ16:16、17)、間違いなく、彼はそのことの意味を十分にはわかっていませんでした。メシアとは誰なのか、メシアは何を成し遂げるのか、そしておそらく最も重要なこと、メシアはそれをどのように成し遂げるのか、ペトロは明確には理解していませんでした。
そのような理解に欠けていたのは、ペトロだけではありませんでした。イスラエルには、メシアに関して多くの異なる考えがあったからです。先の聖句における「メシア」「油を注がれた者」という言葉の使い方自体が、最終的にメシアがどうなり、何をするかをかなり予示していたにしろ、全体像を示していません。
 言うまでもなく、ペトロはこの書簡を書くときまでには、メシアとしてのイエスを二つの書簡の中で、メシアは15回イエス・キリストと呼ばれています。また彼が人類のために成し遂げてられたことのすべてを、もっとはっきり理解していました。

金曜日: 『クリストス』という称号は、新約聖書の中に500 回以上登場する。
イエスの同時代人の間には、メシアという身分に関して複数の概念があった。しかし西暦1世紀までに、ユダヤ人はメシアを神と特別な関係にある者とみなすようになっていた、と一般的に認識されている。メシアは、神の国が樹立されるときに、時代の終わりの到来を告げるのである。神は彼を通して、御自分の民を解放するために歴史に介入される。イエスは『メシア』という称号を受け入れられたが、それを使うように勧めることはなかった。なぜなら、この言葉には、その使用を難しくさせる政治的なニュアンスが伴っていたからである。イエスは御自分の使命を説明するために、その言葉を公の場で使うことはためらわれたが、それを使ったことでペトロ(マタ16:16、17)やサマリアの女 (ヨハ4:25、26)を責めることはなさらなかった。マルコは、『キリストの弟子だという理由で』(マコ9:41)彼の弟子の1人に1杯の水を与えることに関してイエスが語られたことを報告しているが、その報告からわかるように、イエスは御自分がメシアであることをご存じだったのである。」(『SDA聖書注解』第12 巻165 ページ英文)

 ペトロは生涯の間に、イエスさまから、わたしを誰と言うのかと何回か問われています。(マタイ16:15、16、ヨハネ21:15~18)
この問いかけは、とても重要ではないでしょうか。もしあなたがこの問いかけをされたら、あなたは心の中でどのように考えて、なんと答えるでしょうか。
 先日、第二次世界大戦中に、ドイツの田舎にある小さな村の教会で、ナチスドイツが強くなって教会を統制して行く時代に、起こっていたことが書かれている本を読む機会がありました。このような時代に、ナチスに従うかそれとも聖書の従うかを教会は突き付けられました。この教会の牧師は聖書に従い、政治権力に屈しませんでした。
 ドイツの田舎で、数百年にわたり習慣のように毎週教会に集っていた方々も、自分はどちらに従うのかを選ばねばならなくなりました。その中で白か黒しか選べません。中間はないのです。牧師は、そのような中で聖餐式を行いました。彼らは、あたりまえのようにパンを食するのではなく、わたしの主としてイエスキリストの食卓につくことを自ら選んだのです。
 あなたはわたしを誰と言うのか、この問いにあなたはいかに答えるでしょうか。今は平和な時代ですから、まだまだ曖昧でいられるかもしれませんが、いつかはそれを問われる時が来るかもしれません。またいのちの終わりが近づいた時に、あなたは誰にすがるのかと問われる時も来るでしょう。誰しも、この問いから逃れられないことを忘れないでください 。