第8課 聴覚しょうがい者用:浦島 智加男

2017年 第2期 「わたしの羊を飼いなさい」—ペトロの手紙Ⅰ・Ⅱ

第8課:ペトロ書簡の中のイエス

●ペトロは、公生涯の初めからイエス様の一番近くに寄りそいながら、そのみ言葉、み業、行動の意味がわからずに、出すべきではない言葉や行動をとることが多く、裏切りさえしました。
 でも、主は優しく、忍耐強く彼を取り扱い、許し、導かれた故に、弟子としての立場を保つことができました。
ペンテコステの聖霊のゆたかな注ぎを受けた後は、主の生涯のすべての意味が理解できるようになり、見違えるように伝道者として、また牧師として立ち上がりました。今は、小アジアの各地に存在している教会の牧者として、丁寧に教え、諭し、そこを離れなければならなくなったとき、時間があれば、信徒一人一人に語りかけるはずであった、信仰者としてのあり方を、こうして手紙を送って、励ましているのです。

●彼の手紙の中身は、もちろん主イエスのことです。
1、イエス様が、十字架で死なれたのは、犯した者が旧約時代の聖所で罪を犯した人が、祭司の前で小羊の頭に手を置き、罪を告白して、自分の罪を小羊になすりつけた後、その羊が殺されることで罪が赦されたように、イエス様があなたの罪の身代わりになるために、死なれた(犠牲になったこと)のです。

2、この犠牲の死はその時イエス様が考え出したものではなく、人間が創造される以前から、父・子御霊の三位一体の神様が協議し、合意されて用意されたものでした。
ですから、ガイドの問1にあるように、旧約聖書にも予言されていました。この犠牲の死は、簡単なものではなく、イエスさまのご生涯を、人間たちが理解しようとせず、そのお方をひどい扱いをして苦しめ、最後には、極限(耐えられるぎりぎりのところ)の死に方をされることも、分かっていたのです。これがキリストの受難です。
私の罪が赦されるためには、どれほどの苦痛をイエス様が味われたかを私たちも、もっと瞑想すべきです。もっと、主にお詫びし感謝すべきだとペトロは言ってます。

3、しかし、イエス様のこの地上におけるご生涯は、死で終わりではありませんでした。罪びとの私の罪を許されたのは、私たちを、罪の支配が及ばない世界に容れて下さるためでした。そのご計画が実現するためには、この死を打ち破り、死に終わりを告げる力が神様にあることを示すために死んで墓に葬られた所から、生き返るというすごい力をあらわされたのでした。これが、キリストの復活です。
 
●旧約聖書の時代のイスラエルには、民の罪を犠牲の動物の血を用いて罪の許しを自覚させる働きをした祭司、民が神に常に忠誠であるように導く預言者、国を治める王の三者がおりました。彼らが、神様から選ばれ、その任務にあたるときは、その頭に香油を注がれました。メシヤとはガイドにもあるように「油そそがれた者」という意味です。
 イエス様は、この三者の働きを一緒にたばねたようなお方です。これは、人間ではできません。神であられ、人間になられたイエス様でなければならなかったのです。ペトロは、まさにイエス=キリストであると証言しています。