第10課 和田 耕次

2017年 第3期  「ガラテヤの信徒への手紙における福音」 

ガイド67頁「二つの契約は、時代に関する問題ではありません。そうではなく、人間の態度を反映していたのです。二つの契約は、神との二つの異なる関わり方、カインとアベルにまでさかのぼる仕方をあらわしています。古い契約は、カインのように、神を喜ばせる手段として自分の服従を頼りにする人たちをあらわし、それとは対照的に、新しい契約は、アベルのように、神が約束されたすべてのことを実行するために、神の恵みにすっかりより頼む人たちの経験をあらわしています」
古い契約  ハガル=イシマエル=肉による=今のエルサレム=行為義認=奴隷
新しい契約 サラ=イサク=霊による=上なるエルサレム=信仰義認=自由な者
ここでのパウロの戦いの相手はユダヤ教徒ではなくて、ユダヤ的キリスト者です。福音の戦いが福音に真っ向から、敵対するものとの闘いであれば、福音をもって戦うことは、困難であれその構造は単純明快です。しかし、この場合は福音を受け入れながら、福音に加え、福音に並んでさらに何かを主張する者との戦いなのです。パウロが直面しているのは、福音を受け入れると言いながら、律法の実行も併せて必要であるというユダヤ的キリスト者です。パウロは、この者たちにこそ、悔い改めが与えられ、アブラハムの祝福から追放された奴隷の子からキリストにある自由な神の子に生まれ変わって欲しいと願っているのです。
 創世記16章を読むと、イシマエルはアブラハムとサラの不信仰から生まれました。アブラハムは神の約束を待ちきれません。彼は神の約束の中に新しい命への可能性を見ることが出来ないのです。彼は、神が人間の可能性が尽きる時を見ておられるということに思い至りません。多少なりとも自分達ですることがあるのではないか、という思いが人間的な常識の側へ彼らをあとずさりさせました。彼は「主の言葉を実現することから主を排除してしまった」(律法と福音、そして自由120頁)のです。イシマエルはアブラハムにとって、約束に頼らず、自分自身の働きの実に頼るという誘惑の結果生まれました。パウロはこのことを「女奴隷の子は肉によって生まれた」(ガラテヤ4:23)と言い、これに対して「自由の女の子は約束によって生まれた」(同)と言っています。神がその約束の言葉に従って、人間的な可能性を越えたところで与えられたのがイサクです。人間の望みが絶たれたと思われる時と所に神の約束の世界が開けます。それは常識に反することであり、現在存在するどのようなものによっても実証されない、神からの賜物を信じることが求められます。罪人が救われるということも、私達の側の可能性は全くありません。私達の救いにかかわることは、全部神の可能性によることなのです。そこには自分と他人を比較する余地は全くありません。
 ユダヤ主義は肉による、血脈による区別を絶対化し固定化しました。血筋に生きるというのは過去の遺産に生きることです。しかしここに、「約束によって」という、全く外からの新しい事態が起こりました。すべての者はこの約束の働きによって「肉」の閉塞状態から自由にされます。この自由は「・・・からの」自由です。律法主義、罪と死からの自由なのです。それと同時に、「・・・への」愛に基づく自由でもあります。これはキリストへ帰属することへの自由です。私達をこの二つの自由に生きる者とするために、肉が肉を生み続ける人間の歴史の中に、約束の御子イエス・キリストはお生まれ下さいました。
【人間の不信仰すら用いて、恵みの御業をなさって下さる神】 私達の信仰は、常に不信仰と同居しています。しかし、私達は自分の不信仰を信じないでマルコ9:24「信じます、不信仰なわたしを、お助けください」と「不信仰」を神に差し出したいのです。差し出すことで、自分の不信仰に自分の将来を決定させないのです。「信仰」とは「不信仰」の克服として、常に新しく与えられる神からの賜物なのです。復活の主イエスはトマスに言われました。ヨハネ20:27「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。人間の不信仰や疑いが絶対的なものではなく、人間の中に「信仰」を造り出す神の御業に自分のすべてを委ねましょう。私達は自分の手の中に何か、確かなものを持ちたい者ですが、本当の確かさは、私達を捕らえ続けていて下さる神の恵みの中にのみあるのです。