第10課 安河内アキラ

2017年 第3期 ガラテヤの信徒への手紙における福音

第10課       二つの契約        9月2日        

暗唱聖句   「他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です」    ガラテヤ4:26

今週の聖句    ガラテヤ4:21~31、創世記1:28、2:2、3、3:15、15:1~6、出エジプト記6:2~8、19:3~6

今週の研究   二つの契約は、時代に関する問題ではありません。そうではなく、人間の態度を反映していたのです。二つの契約は、神との二つの異なる関わり方、カインとアベルにまでさかのぼる仕方をあらわしています。古い契約は、カインのように、神を喜ばせる手段として自分の服従を頼りにする人たちをあらわし、それとは対照的に、新しい契約は、アベルのように、神が約束されたすべてのことを実行するために、神の恵みにすっかりより頼む人たちの経験をあらわしています。

日曜日:「契約」と訳されているヘブライ語は、「ブリット」です。この言葉は、旧約聖書の中におよそ300回登場し、拘束力のある契約、取り決め、協定などを意味しています。何千年もの間、契約は、古代中近東の各地の人々や国々の関係を明確にするうえで重要な役割を果たしました。契約には、それを結ぶ(文字どおりには「切る」)過程の一部として、しばしば動物をほふることが付き物でした。動物を殺すことは、その契約上の約束や義務を果たさなかった側に起こるだろうことを象徴していたのです。

月曜日:創世記12:1~5において、アブラムに対する神の最初の約束は、旧約聖書の中でも特に力強い聖句の一つです。これらの聖句は、もっぱら神の恵みについて述べています。約束をしたのは神であって、アブラムではありません。アブラムは、神の好意を得るためのこと、あるいは神の好意に値することを何もしていませんでしたし、神とアブラムが何らかの協力をしてこの合意に至ったことを示すものもありません。あらゆる約束事は神がなさっています。それに対して、アブラムは神の約束の確かさを信じるように命じられています。いわゆる薄っぺらな「信仰」ではなく、(75歳にもなって)家族や親類を捨て、神が約束された地に向かうことで示される信仰を持ちなさい、と……。

水曜日:シナイにおいて、神は御自分の民と契約関係を築きたいと願われました(出6:2~8、19:3~6、申32:10~12)。神はシナイにおいて、アブラハムと結んだのと同じ契約関係をイスラエルの子らと結びたいと願われました。実際のところ、創世記12:1~3で神がアブラハムに語られた言葉と、出エジプト記19章でモーセに語られた言葉との間には類似点があります。いずれの場合にも、神は御自分の民のためになそうとしていることを強調しておられます。神の祝福を得るために何かをすることを約束しなさいと、神はイスラエルの人々に求めておられません。その代わりに彼らは、それらの祝福への応答として従わなければならないのです。出エジプト記19:5で「従う」と訳されているヘブライ語の文字どおりの意味は、「聞く」ということです。神の言葉は、行いによる義を意味していません。それどころか、神はイスラエルに、神の約束に対するアブラハムの応答を(少なくとも、たいていの場合に)特徴づけたのと同じ信仰を持ってほしいと望まれました。

 聖書は神さまとわたしたちの契約を教える書物でもあります。だから旧約、新約と言って、約は約束から来ています。今週の研究のところに引用していますが、古い契約が新しい契約によって取って代わられたりしたものではありません。
 契約はお互いに結ぶものです。神さまから、わたしたちの罪を赦して永遠の天国をあげましょうと契約を提示されます。次にわたしたちの役割があります。それはその神さまの導きに信頼して従うか、それしか求められていません。その約束に信頼して前進すること、それは月曜日の引用文にもありますが、生易しいことではありません。
 今週の学びでは、イサクとイシマエルの例があげられています。わたしはここから、神さまを信じたアブラハムが、約束の遅れとともない人間的な方法でことを起こし、失敗してしまった弱さについて書かれています。けれども神さまは再びアブラハムと契約を結ばれます。同じように、わたしたちも契約を結び信頼をしつつも、現実の厳しさの前にまちがった選びをしてしまうこともあるでしょう。それでも神さまに立ち返る時に、また迎えてくださる。そのような神さまの愛を表しているのではないでしょうか。