第10課 聴覚しょうがい者用:柳 鍾鉉

2017年 第3期  ガラテヤの信徒への手紙における福音

第10課  二つの契約

暗唱聖句:しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす。(ガラテヤ4:26)

今週は二つの契約について学びます。この二つの契約はつぎのような言葉で表すことができます。「律法の下と恵みの下、イサクとイシュマエル、女奴隷ハガルと自由な身の女であるサラ、地のエルサレムと天のエルサレム、肉と約束」。

使徒パウロはガラテヤにある教会にはっきりと「救いは律法順守によるものではない」と話しています。パウロの救いに関する基準とは聖書が提示しているものであって、主イエス・キリストによる恵みによって与えられたものです。従いまして、今週扱っているテーマである二つの契約は時代に関する問題ではなく、各時代を通じて流れている二つの救いの基準です。一つは神の基準であり、もう一つは人間が勝手に作り出した基準です。この二つの契約は古い契約と新しい契約に分けて考えることができます。

古い契約:カインのように、神を喜ばせる手段として自分の服従を頼りにする人たちをあらわし、新しい契約はアベルのように、神が約束されたすべてのことを実行するために、神の恵みにすっかりより頼む人たちの経験をあらわしています。(聖書研究ガイド、p.67)

日曜日:契約の基本
人間の堕落前の神との契約は“禁断の木の実を食べてはならない”という神のご命令でした。そして契約の基本的性質は、「服従して生きよ!」です。しかし、この契約は人間の不従順によって破られたためにこの契約は意味ないものになってしまいました。人間の堕落後、神は別の契約を人間に与える必要がありました。つまり、救い主の永遠の約束に基づく恵みの契約であって、救い主を表す動物(小羊、山羊、牛)の血が流されて立てられる契約でした。

月曜に:アブラハムの契約
創世記12:1〜5で神はアブラハムに約束の言葉が与えられました。それはアブラハムを大いなる国民とし、彼の名を大きくし、祝福の基とする約束でした。ところがこの約束はアブラハムが100歳の時、即ち約束の子であるイサクが生まれることによって始めてなされました。その約束が与えられてから神はアブラハムとの契約を結ぶましたが、それは古代中近東で契約を結ぶ時に行なわれた同じ方法を通してでした。つまり、切り裂かれた動物たちの間を通り過ぎることでした。聖書はその切り裂かれた動物たちの間を通り過ぎたのはアブラハムではなく神ご自身だと書かれています。神はアブラハムと契約を結ぶ時にご自分の命をその約束に懸けられたのです。

火曜日:アブラハム、サラ、ハガル
アブラハムは86歳の時に、妻サラの提案によりエジプト女奴隷であるハガルの所に入り、子供を設けました。ハガルから生まれた子はイシュマエルでした。それから14年経ってからアブラハムとサラの間から約束の子であるイサクが生まれます。アブラハムが100歳、サラが90歳の時でした。ハガルから生まれた子は神の約束された子ではなく人間の思いや計画によってつくられた子でした。神の約束を待てないで人間が勝手な行いをする時にそこからいつも肉なるものが生まれます。そのような肉なる行いによって二人の子から二つの民族が生まれ、彼らの間に戦いが今でも続いていることは実に悲しいことです。

水曜日:ハガルとシナイ山
ハガルはエジプト人の女奴隷でアブラハムとサラに仕えていました。聖書でハガルが表しているのは神の約束に基づく信仰ではなく、神の約束に基づいてない人間の勝手な行いをあらわしています。アブラハムとサラは、神を助けて御約束を果たさせようとして、神の恵みの契約を行いの契約に変えようとしました。それでハガルはシナイを象徴しています。これは行いによる救いを求める人間の企てをあらわしています。

木曜日:今日のイシュマエルとイサク
使徒パウロは自分たちが真のアブラハムの子であると主張しているユダヤ人に対して反論しました。誰がアブラハムの真の子でしょうか。それはアブラハムが神を信じて義とされたように、神を信じるものです。割礼を受けたからとか、律法を順守している事でアブラハムの子にはなれません。アブラハムの真の子孫は、この世において迫害に直面します(ガラ4:28〜31;創21:8〜12)。約束の子であったために、イサクは祝福を得るとともに反対や迫害にも遭いました。イエス・キリストは山上での説教で次のように話されました。「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」(マタイ5:10)。私たちはイサクの霊的子孫として、苦難や反対に遭遇するとき、たとえそれが教会の家族の中からのものであったとしても、驚くべきではありません(聖書研究ガイド、p.72参照)。

神は私たち一人一人が古い契約に生きるものではなく、新しい契約に基づいて生きることを願っています。それは文字に生きることではなく、愛に生きることです。救われるために何かをせねばならない事ではなく、神の恵みによって救われたからもっと神の言葉に従いたいと心からの思いに生きることです。