第11課 安河内アキラ

2017年 第3期 ガラテヤの信徒への手紙における福音

第11課          キリストによる自由         9月9日

暗唱聖句  「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」ガラテヤ5:13
 
今週の聖句  ガラテヤ5:1~15、Ⅰコリント6:20、ローマ8:1、
       ヘブライ2:14、15、ローマ8:4、13:8

今週の研究  律法主義も放縦も自由とは対立します。なぜなら、それらはいずれもその信奉者たちを一種の隷属状態にとどめ置くからです。しかし、ガラテヤの人たちに対するパウロの訴えは、彼らがキリストによって正当に所有している真の自由にしっかり立ちなさい、ということです。

月曜日:パウロは、どういう意味で自由という言葉を使っているのでしょうか。第一に、それは抽象的な概念ではありません。それは、政治的自由、経済的自由、好きなように生きる自由のことでもありません。それは、イエス・キリストとの関係に根差した自由です。文脈から、パウロが律法主導のキリスト教の隷属と有罪宣告からの自由について述べていることはわかりますが、私たちの自由にはそれ以上のものが含まれます。罪、永遠の死、悪魔からの自由が含まれているのです。
 「イエス・キリストを別にすれば、人間の存在は隷属によって特徴づけられる。律法への隷属、この世を支配している悪の力への隷属、罪、肉、悪魔への隷属などである。神が御子をこの世に遣わされたのは、こういった束縛するものの支配を打ち砕くためであった」(ティモシー・ジョージ『ガラテヤ書』354 ページ、英文)。

水曜日:このように、キリストによる私たちの自由は、この世に隷属することからの単なる自由ではなく、新しい種類の奉仕、愛によって他者に仕える責任への召しなのです。それは、「妨げなく隣人を愛する機会、相互の自己犠牲に基づく人間社会を生み出す可能性なのである」(サム・K・ウィリアムズ『ガラテヤ書』145 ページ、英文)。
 私たちがキリスト教に慣れ親しんでいることや、ガラテヤ5:13 の現代語訳の言葉遣いのために、これらの言葉からガラテヤの人たちが受けた衝撃を見逃しがちです。第一に、そのギリシア語は、この種の奉仕を動機づける愛 が普通の人間的な愛ではないこと、人間的な愛では不可能であることを示しています。人間の愛はあまりにも条件付きだからです。ギリシア語の「愛」に相当する言葉の前にパウロが定冠詞を用いていることは、彼が聖霊によって私たちに与えられる神の愛について述べていることを示します(ロマ5:5)。しかし本当の驚きは、「仕える」と訳されている言葉が、「奴隷にされる」に相当するギリシア語だという事実にあります。私たちの自由は自立のためのものではなく、キリストの愛に基づいて相互に奴隷になるためのものです。

木曜日:パウロによれば、律法の完全な意味はイエスに見いだされます(レビ19:18、マコ12:31、33、マタ19:19、ロマ13:9、ヤコ2:8)。ガラテヤ書におけるパウロの言葉はレビ記からの引用ですが、突き詰めれば、レビ記19:18 をイエスがお用いになったことに基づいています。しかしイエスは、律法全体の要約としてレビ記19:18 に触れた唯一のユダヤ人教師ではありません。イエスより一世代前に生きたラビ・ヒレルは、「あなたにとって不愉快なことを隣人にしてはならない。それが律法全体である」と言いました。しかし、イエスの考え方は、根本的に違いました(マタ7:12)。それはずっと肯定的であるばかりでなく、律法と愛が相容れ ないものではないこともはっきり示しています。愛がなければ、律法は空しく、冷たいものであり、律法がなければ、愛には方向性がありません。

 今週は、「キリストによる自由」という題で学びます。神さまは人間を創造するときに、自由な存在として創造をされました。最初に彼らが住んだエデンンの園には、彼らが暮らすために必要なものは、すべて備えられました。そして彼らが神さまを信頼して尊敬して服従を選ぶしるしとして「善悪を知る木」を置かれたのでした。自由な存在として、正しい選びをするためには、選ぼうとするものほんとうに姿、状態などを知らねばなりません。もし二人が、それを選ぶことがどのようなことになるのか、しっかりとわかっていたら、おそらくこのような選択をしなかったのではないでしょうか。
  その結果、すべての人類は罪と死の奴隷となってしまったのです。今週の題は、キリストによる自由とあります。わたしたちが自分で自由を勝ち取ったのではなく、キリストが与えてくださったのです。そのことについて月曜日の引用文をお読みください。わたしたちはキリストを信じることによって罪や永遠の死から自由になったのです。
 その意味がほんとうにわかったら、わたしたちの選びは変わってきます。自ら今までと異なるものを選ぶようになります。まさにいのちの本質がわかったら、いのちが神さまによって与えられたものであることを知ったら、自ら神さまが喜ばれる道を選ぶようになります。このことについては水曜日の引用文に書かれています。
  「尊いのは、愛によって働く信仰だけなのである」(ガラテヤ5:6)律法にしばられて、これをしないと救われないからと善い行いをするのではなく、だれかの幸せのために働くことが大切なのです。同じ善い行いでも動機が変われば全然違うものになってしまいます。愛によって働く、これこそがほんとうに自由を知った者の働きではないでしょうか。