第13課 レックス アボット

2017年 第3期 「ガラテヤの信徒への手紙における福音」 

第13課  福音と教会
 
 今週の暗唱聖句は、教会の働きを内側と外側に分けています。今週の学びは、教会の中にいる者の働きに焦点を置いていると言えるでしょう。ガラテヤ6:1〜10は、霊的な変革によって変えられた家族が、世に対してキリストの姿を反映する灯台の光を保つための原則を教えています。著者の要点は5つの原則に絞れると思います。

教会の人間関係の原則:
•他者を重んじ、互いに助け合うことで教会はキリストの体としてキリストの御姿を反映する。
•罪に陥った者を助けるときにはうぬぼれに注意するべきである。
•重荷は互いに負い合うべきである。一人で担うのに耐えられないほどの重荷は、神様が担ってくれるので委ねる必要がある。
•霊にまかれた種は、蒔いた分だけ収穫することになる。
•上記のことがらを行うことによって、キリストの律法(愛の律法)を全うする教会家族になる。

この原則を適応するための要点:
•互いに助け合わなければ、人間関係がうわべだけの関係になる。
•自分も罪人であることを認識して、愛と思いやりをもって罪に陥ったものを助ける。
•互いに正直に心を開き合わなければ重荷を負い合うことはできない。

✻ 互いに助け合う
 互いに助け合うことは、他者のために時間を費やし、関り合い、励まし、修復の道を共に歩むことです。他の兄弟姉妹を自分より優先する人間関係です。これが神の国の原理といっても良いでしょう。 ガイドに記されている「小さめの野菜」ではなく、「大きな野菜」を植える話は、そのことを指していると思います。この原則は、「蒔くことと刈り取ること」(ガラテヤ6:8)に関連しています。
 だれでも、毎日、毎週、常に蒔いているのです。(ガラテヤ6:9)互いのことを本当に心に掛け、仕え合うなら、霊に蒔いていて、その結果は健全で生きた教会家族を収穫することです。よく考えてみると、小さい「手抜き」も「そこまでしなくても…」の態度もこの原則に反することではないでしょうか? 「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」(ヤコブ4:17)とあります。何事をするにも(しなくても)、私たちは肉もしくは霊の種を蒔いているのです。

応用質問:具体的にどのようなことによって互いに助け合うことができるでしょうか?

✻自分も罪人であることを認識して、思いやりをもって罪に陥ったものを助ける
 迷っている者や堕落している者を立ち直させることがキリストの使命であったように、私たちもキリストの手足となって働く者の集まりです。ローマ3:23に全ての者が罪人であるとあります。誰もが、罪に陥った兄弟や姉妹と同じ罪を犯す可能性があることを認識することが必要です。著者は、ガラテヤ6:1の「誘惑」は、主にうぬぼれの誘惑を示唆しているのではないかと記しています。このうぬぼれや高慢の誘惑に陥いらないように、自分を吟味するときに、私たちが助けようとしている者と自分が同様の弱さを持っており、聖霊の働きがなくては自分も神様との関係を回復することができない者であることを自覚する必要があります。ですから、だれもその人を裁くことはできません。むしろ、キリストの愛をもって包み込み、御言葉そのものを導くことが大切です。この罪に陥った者を回復させる働きが処罰的でないかどうかは、その兄弟姉妹が、神様との親密な関係を回復する方向に向かう結果をもたらしているか否かを観察することによって見分けられます。

応用質問:具体的にどのようなことによって罪に陥ったものを立ち帰らせることができるでしょうか? これには聖書的な何らかの限界があるのでしょうか?

✻互いに正直に心を開き合わなければ重荷を負い合うことはできない。
 私は日本人が個人的にプライベートに関しては互いに関わり合わない傾向があると観察しています。他者の事情に立ち入らないように注意をしているようです。ですが、クリスチャンとして、私たちは他者の重荷を「愛をもって負い合う」必要がある場合もあるのではないかと思います。実際は知らない方が楽ですが、礼儀を口実にして、他者の必要に手を差し伸べないことは良いことでしょうか?他者の戦いに関わる愛と忍耐を神様に祈り求めることなく、社会福祉機関に任せるだけで良いのでしょうか?クリスチャンとして取るべき態度はどのようなものであるべきでしょうか?
 教会で自分の弱さの話、又は、肉の戦いを語った証を聞きますか?そこまで腹を割って証を述べるだけの親密な信頼感と愛がありますか?それとも、教会は ‘アラを見せてはならない’ 義人だけの集まりの場所の雰囲気がありますか?
教会は表面的ではなく、より 深い透明感ある人間関係を求めるべきです。そうでなくては互いの重荷を負い合うことはできないのではないでしょうか? このような教会家族を築くためには、信頼感と透明感を育成する小グループが必須です。世の人たちは、私たちが互いに本当に愛し合う姿を観ることによって、はじめて私たちクリスチャンの言葉に耳を傾け、助けを求めてくるのではないでしょうか?

ディスカッションのテーマ:どうすればお互いの信頼関係と透明感を育成する教会になるでしょう?