第13課 安河内アキラ

2017年 第3期 ガラテヤの信徒への手紙における福音

第13課          福音と教会         9月23日

暗唱聖句   「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」 ガラテヤ6:10

今週の聖句   ガラテヤ6:1~ 10、マタイ18:15 ~ 17、
        Ⅰコリント10:12、ローマ15:1、ヨハネ13:34、ルカ22:3

今週の研究   教会は、聖霊の導きによって私たちが他者を自分より重んじる場所にならねばなりません。私たちが恵みによって救われることを理解することで、私たちは謙遜になり、他者との接し方においてもっと忍耐深く、情け深くなるべきです。

月曜日:パウロはガラテヤの人たちが霊的に高慢になることを警告する必要がありました(Ⅰコリ10:12、マタ26:34、サム下12:1~7 参照)。クリスチャンの歩みにおける最大の危険の一つは、ある種の罪を私たちが犯す恐れはない、と何となく思わせる霊的なうぬぼれの感覚です。しかし厳しい事実として、私たちはだれもが罪深い性質を、つまり神に逆らう性質を持っています。それゆえ、神の霊の抑制する力がなく、条件がそろいさえすれば、私たちはどんな罪にも屈してしまうのです。そのような、キリストを離れた私たちの真の姿に気づくことは、私たちが独善という罪に陥るのを防ぐとともに、過ちを 犯す他者に対してより大きな同情心を私たちに与えてくれます。

火曜日:
第一に、神学者ティモシー・ジョージは次のように述べています。「すべてのクリスチャンには重荷がある。私たちの重荷は大きさや形が違うかもしれないし、私たちの人生の摂理的秩序によってその種類も異なるだろう。ある者にとっての重荷は、ガラテヤ6:1 にあるように、誘惑とその道徳的廃はいたい頽の結果である。別の者にとっての重荷は、肉体的な病、精神障害、家族の危機、失業、悪霊による抑圧、その他か もしれないが、クリスチャンで重荷を免れている人はだれもいない」(『ガラテヤ書』413 ページ、英文)。
 第二に、神は、すべての重荷を独りで背負い込むようにとは意図しておられません。残念ながら、私たちはだれかに肩を貸してもらうよりも、だれかの重荷を負ってその人を助けようとします。自分自身も必要と弱さを持っていることを認めようとしないとき、パウロはその自己充足的な態度(ガラ6:3)を人間の高慢だと非難します。そのような高慢は、私たちから他者の慰めを奪うだけでなく、神が彼らを召してさせようとしておられる働きを彼らが実行できないようにするのです。
 第三に、他者の重荷を担うようにと神が私たちを召しておられるのは、私たちの行動を通して、神の慰めがあらわされるからです。この考えは、教会がキリストの体である事実の上に基づいています。 その実例は、「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」(Ⅱコリ7:6)というパウロの言葉の中にあります。次の点に注目してください。「神の慰めがパウロに与えられたのは、個人的な祈りや主に仕えることによってではなく、友人との交わりとその友人がもたらした良い知らせを通してであった。私たちが互いの重荷を担うという人間の友情は、御自分の民に対する神の御目的の一部なのである」(ジョ ン・R・W・スコット『ガラテヤ書のメッセージ』158 ページ、英文)。

木曜日:ガラテヤ6:8 を読んでください。聖書の登場人物の中で、肉にまいた人、霊にまいた人の例を見ることができます(使徒5:1 ~ 5、ルカ22:3、ダニ1:8、マタ4:1を参照)。まくことと刈り取ることに関するパウロの比喩は、彼独特のものではありません。この比喩が古代の多くの諺ことわざにも出てくる人生の事実です。しかし重要なのは、パウロが肉と霊に関するこれまでのコメントを強調するために、どうそれを用いているかという点です。ジェームズ・D・G・ダン は、「現代風に言えば、私たちは自由に選べるが、自分の選択の結果は自由に選べないということだ」(『ガラテヤ書』330 ページ、英文)と記しています。
 神はこの世の罪の結果から必ずしも私たちを救い出されませんが、私たちは自分の誤った選択に対する絶望感で打ちのめされてはなりません。私たちは、神が私たちの犯した罪を赦し、御自分の養子としてくださったことを喜ぶことができます。私たちは現在手にしている機会を用いて天の実りを生み出すものに投資すべきです。
 

今週の学びの前半で、パウロは高慢にならないように勧めています。聖書はくりかえし高慢になることによって神さまから離れてしまうと警告しています。なぜなら高慢になることは、自らを高くしてまわりの声を聴こうとしないからです。月曜日の学びでは「霊的なうぬぼれ」と教えています。わたしたちはこの地上で完全な人間になることはできません。だからこそ、自らの弱さを忘れてはいけないのです。
木曜日の学びにも書かれていますが、わたしたちはまいたものを刈り取らねばなりません。神さまは罪をゆるしてくださいますが、罪の結果からは逃れることができないのです。まちがった選びをしてしまったことがあるでしょう。そのことをも神さまは活かしてくださいますが、その結果の苦しみも背負わなければならないのです。先週、書かせていただきましたが、キリストの十字架による赦しを受けるためには、心からの悔い改めが必要なのです。
  そして今週の暗唱聖句、まず時のあるうちにと前提条件が書かれています。再臨を待ち望むわたしたちにとって、まずは再臨までの時と考えますね。けれども、わたしたちがだれかを助けることができる時間が限られているのです。やりたくてもできなくなる時がいつやってくるかわかりません。だからこそ、遠くの人を助けることではなく、まずはあなたのまわりにいる人にできることをすること、これが今やらねばならないことではないでしょうか。