第13課 聴覚しょうがい者用:小林 勝

2017年 第3期  ガラテヤの信徒への手紙における福音

第13課  福音と教会

はじめに
 ある農夫たちが、自身のために一番大きな野菜は残しておき、小さめの野菜を〔種イモのように〕種として植えました。期待外れの収穫が何回か続いたあと、自然が彼らの農作物をビー玉ほどの大きさにまで小さくしてしまったことに気づきました。この大失敗を通して、農夫たちは生命の重要な法則を学びました。
パウロはこの法則をガラテヤ 6:1 ~ 10 で適用しています。教会員が「互いにかみ合い、共食い」(ガラ5:15)するのでなく、教会は、聖霊の導きによって私たちが他の人を自分より大切にする場所になることが必要です。私たちが恵みによって救われることを理解することで、私たちは謙遜になり、他の人との接し方においてもっと忍耐深く、情け深くなる必要があります。
 
日曜日(17日)「罪に陥った人を立ち帰らせる」
  パウロが論じている不正な行為が意図的なものでないであろうことは、用いている言葉から明らかです。「罪」や「罪過」と訳されている言葉は、意図的な罪ではなく、「過ち」「しくじり」「つまずき」などを指します。これはその人の過ちの言い訳にはまったくなりませんが、パウロが大胆な罪(Ⅰコリ5:1 ~ 5)を扱っているのではないことを明らかにしています。
 このような状況における適切な応じ方は、処罰、裁き、除名などではなく、立ち帰らせることです。「立ち帰る」と訳されているギリシア語の意味は「修復する」「整理整頓する」ことを意味します。ギリシア語の文献では医学用語として、折れた骨を接ぐことをあらわしています。倒れて脚の骨を折った仲間の信者を見捨てないように、私たちは、キリストの体の一員として、神の国への道をともに歩む途中でつまずき、倒れるかもしれないキリストにある兄弟姉妹を優しく世話する必要があります。

月曜日(18日)「誘惑に注意する」
 ガラテヤ 6:1-10 での「誘惑に陥らないように私たち自身の身を守りなさいという」パウロの言葉の真剣さを、見逃してはなりません。パウロの訴え方の中に、彼の勧告の背後にある緊急性のあらわれや個人的心配が見て取れます。この警告を強調するために、彼はガラテヤ 6:1の前半で使っている二人称複数形(「あなたがた」)を、後半では二人称単数形(「あなた」)に変えています。これは、教会員全員に当てはまる全般的な警告ではなく、教会内の1 人ひとりに向けた個人的な警告だということです。

火曜日(19日)「重荷を担う」
ガラテヤ6:5 で「重荷」と訳されている原語の意味は、だれかが遠くまで運ばねばならない重い荷物を意味します。「互いに重荷を担いなさい」というパウロの命令の背景には、前の節で触れられている仲間の信者の道徳的はいたいも確かに含まれますが、彼が心に抱いている重荷の概念はずっと広いものです。パウロの指示は、見逃されてはならないクリスチャン生活に関する霊的洞察を3つ明らかにしています。
1.「すべてのクリスチャンには重荷がある。
2.神は、すべての重荷を独りで背負い込むようにとは意図してません。
3.他者の重荷を担うよう神が召しているのは、私たちを通して、神の慰めがあらわされるからです。

水曜日(20日)「キリストの律法」
 ガラテヤ 6:2 の前後関係と5:14 のよく似た語句は、「キリストの律法を全うする」というのが、愛によって道徳律を全うすることの言い換えであることを示唆しています。
「重荷」には人々が私たちを助けて運べる重荷もあれば、いかなる人も私たちのために運ぶことのできない重荷があります。例えば、罪悪感、苦しみ、死などです。このような重荷は、私たちは神の助けだけに頼る必要があります(マタ11:28 ~ 30)。

木曜日(21日)「まくことと刈り取ること」
「まくことと刈り取ること」に関するパウロの比喩は、独自のものではありません。重要なのは、パウロが肉と霊に関するこれまでのコメントを強調するために、どうそれを用いているかという点です。「私たちは自由に選べるが、自分の選択の結果は自由に選べないということ」です。
 一方で、ガラテヤ 6:10 は次のような点を明らかにしています。「クリスチャン倫理には二重の焦点がある。一つは、『すべての人に良いことをしよう』という普遍的で包括的な焦点。もう一つは、『家族である信者に、とりわけ良いことをしよう』という限定的な焦点です。パウロの普遍的な訴えは、あらゆる場所にいるすべての人が神にかたどって造られているということ、それゆえに神の目に限りなく貴いものであるという事実に基づいていました。聖書の啓示の最も重要なこの前提を忘れたときに、クリスチャンは逃れがたく、人種差別、性差別、部族主義、階級主義というような分別を失わせる罪や、アダムとエバから今日に至るまでの人間社会を傷つけてきた多くの偏狭な考えの犠牲者になってきたのである」(ティモシー・ジョージ『ガラテヤ書』427、428 ページ、英文)。

まとめ
神が御自分の民の中におられることは、教会の中にあらわれるキリストのような精神によって示されます。それは、過ちを犯した者に赦しや回復がいかに与えられるか、試練の中にあって信者がいかに助け合うか、
信者の間だけでなく、未信者にもなされる意図的な思いやりの行動などの中に見られるのです。