第14課 安河内アキラ

2017年 第3期 ガラテヤの信徒への手紙における福音

第14課          十字架を誇る         9月30日

暗唱聖句 「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」 ガラテヤ6:14

今週の聖句   ガラテヤ6:11~18、ローマ6:1~ 6、12:1~8、Ⅱコリント4:10、5:17、11:23~29

今週の研究   キリストの十字架の前以上に、私たちの「誇るべき」知恵、富、力の無益さ、空しさがはっきりとわかる場所はありません。ガラテヤの誤れる群れへのパウロの手紙の焦点は、そこなのです。

火曜日:キリストの十字架は、パウロとこの世との関係に違いをもたらしました(ガラ6:14、ロマ6:1 ~ 6、12:1 ~ 8、フィリ3:8)。キリストの十字架は、信者にとってすべてを変えます。それは、自分自身に対する私たちの見方だけでなく、この世に対する私たちの関わり方も再評価するように迫ります。この世―この現在の悪しき時代とそれに伴うあらゆるもの(Ⅰヨハ2:16)―は神に敵対しています。私たちはキリストと共に死んだので、この世はかつて私たちに対して持っていた隷属させる力をもはや持っていませんし、私たちがこの世のためにかつて生きていた古い命は、もはや存在しません。パウロの比喩に従えば、信者とこの世の断絶は、あたかも両者が互いに対して死んだようなものでした。

水曜日:クリスチャンの人生にとってキリストの十字架が中心であることを強調したのち、今やパウロは彼の福音メッセージの二番目の基本的な教義、信仰による義を強調します。今期ずっと見てきたように、パウロは割礼と福音を基本的に対抗させてきました。しかし、彼は割礼という慣習そのものに反対しているのではありません。パウロは割礼に対して強い意見を述べていますが(ガラ5:2 ~ 4 参照)、ガラテヤの人たちが割礼を受けるよりも受けないほうが神を喜ばすのだと結論づけることは望んでいません。それは彼の主張ではありません。なぜなら人は、することに関してと同様、しないことに関しても律法主義的になりうるからです。霊的に言えば、割礼そのものの問題は無関係です。真の宗教は、外面的 な行為に根差しているのではなく、人の心の状態に根差しているからです。イエス御自身が言われたように、人は外側をすばらしく見せることができても、内側 は霊的に腐っていることがあるのです(マタ23:27)。

木曜日:いずれにしても、「『主イエスの焼き印』という言葉で、パウロは間違いなく、迫害と苦難によって彼の体に残った傷に言及している(Ⅱコリ4:10、 11:24~27 参照)。彼の敵は、ユダヤ教への帰依のしるしとして割礼の印を受けることを異邦人改宗者に強制するよう、強く要求している。しかしパウロは、彼がだれの奴隷になったかを示す印を持っており、しかも彼にとってキリストに対する忠誠心以外の忠誠心はないのである。……パウロが、彼の主人に仕える中で敵から受けた傷は、キリストに対する彼の献身を最も大胆に語ったのである」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第6 巻989 ページ、英文)。

 
 一週間長かったガラテヤ人への手紙の学びが終わろうとしています。今週は6章の最後の部分です。パウロが祐筆を使わずに最後に自分で書いた場所です。それだけ最後にパウロの想いがこもっています。また他のパウロの手紙の最後には、あいさつなどが書かれていますが、ここには一切それがありません。それだけパウロが厳しい想いでこの手紙を書いているのでしょうね。
 パウロは「自らにキリストの焼き印が押されている」ので、別の割礼というしるしは必要ないと語っています。キリストの焼き印、これはすごい表現ですね。焼き印は二度と消えません。そして押される時は、ものすごい痛みが伴うでしょう。けれどもそれが押されることによって、持ち主がはっきりするのです。わたしたちはキリストの焼き印を押していただこうと思っているでしょうか。神の子として生きることを心から望んでいるでしょうか。この言葉は、わたしたちにも問いかけているのです。