第3課 安河内アキラ

2017年 第3期 ガラテヤの信徒への手紙における福音

第3課            福音の一致           7月15日

                                       
暗唱聖句 「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」フィリピ2:2

今週の聖句  ガラテヤ2:1~14、Ⅰコリント1:10~13、創世記17:1~21、
       ヨハネ8:31~36、コロサイ3:11

                                       
今週の研究 
私たちはガラテヤ2:1~14 において、使徒の集まりの一致を壊そうとする何人かの信者による試みのただ中で、パウロがその一致を維持するために全力を尽くしているのを見ます。しかし、その一致がパウロにとって重要であったのと同じくらい、彼は一致団結するために福音の真理が損なわれることを許しませんでした。一致の中には多様性の 余地がありますが、福音はその過程において決して損なわれてはならないのです。

月曜日:パウロが割礼そのものに反対していたと推測するのは、間違いでしょう。彼が反対していたのは、異邦人が割礼を受けなければならないという主張でした。偽教師たちは、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」(使徒15:1)と言いました。つまり、実のところ、問題は割礼に関することではなく、救いに関することだったのです。救いはキリストに対する信仰のみによるのか、それとも、救いは人間の服従によって得られるものなのか、ということです。

火曜日:クリスチャン経験の一つの表現として、「自由」は、パウロにとって重要な概念です。彼は、新約聖書のどの記者よりもこの言葉を頻ひんぱん繁に用いており、ガラテヤ書の中では、「自由な」「自由」という言葉が何度も登場します。しかし、クリスチャンにとっての自由は、キリストにある自由を意味します。それは、妨げられずに神に献身した人生を送ることです。その言葉には、私たちの罪深い性質の欲望に捕らわれることからの自由(ロマ6 章)、律法が罪に定めることからの自由(ロマ8:1、2)、死の力からの自由(Ⅰコリ15:55)を含みます。

木曜日:パウロの視点からすれば、ペトロの行動は、ひいき目に見ても異邦人クリスチャンが二流の信者であることを意味していました。またペトロの行動は、もし異邦人クリスチャンが十分な交わりを体験したいと思うなら、同化しなければならないという強い圧力を加えることになると、パウロは考えたのです。それゆえ、「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」(ガラ2:14)と、パウロは言っています。「ユダヤ人のように生活すること」という句は、文字どおりには、「ユダヤ風にすること(to Judaize)」と訳せます。この言葉は、「ユダヤ人の生活様式を採用すること」を意味する慣用語で、会堂に通い、ユダヤ人のそのほかの慣習にならう異邦人たちに用いられました。このことは、パウロが「偽の兄弟たち」と呼んでいるガラテヤの敵が、しばしば「ジューダイザー(Judaizers)」と称された理由でもあったのです。

 今週の学びの一つのポイントは火曜日の引用文にも書かれている「キリスト者の自由」についてです。わたしはクリスチャン二世だったので、神さまを信じることによって「本当の自由」を手にすることができるという教えをなかなか理解することができませんでした。なぜならキリスト教を信じると、あれができないこれもできないという禁止事項ばかりが目についてしまったのです。
 わたしたちはしばしば禁止事項を設けることによって、問題を解決してしまったように思えてしまうことがあります。そのうち禁止事項だけが独り歩きして、なぜ禁止をしているかが忘れ去られてしまうことがしばしばないでしょうか。
キリストにある自由、それはこの地上のすべてのものが神さまによって造られ、必ず終わりが来ること、また目には見えないけれど善と悪との戦いのさなかにあることなど、物事の本質をしっかりと理解をしたうえで、正しい判断ができるようになる、これがキリストにある自由なのではないでしょうか。そのために大切なことは何か、必要のないものは何なのかしっかりと考えて判断ができることがキリストのある自由なのです。