第3課 聴覚しょうがい者用:武田 将弥

2017年 第3期  ガラテヤの信徒への手紙における福音

              第3課 福音の一致

1・『今週のテーマ』
天の国は神様だけを中心とした、完全に愛と調和に満ちた世界です。ですから我々の教会も分派などは作らず、本来であれば1つにまとまっていなくてはなりません。しかしこの地上にはすでに多くのキリスト教の教派が存在しています。理由は様々ですが、聖書(神様)のせいではありません。人間たちの考え方や受け取り方の違い、または利害の不一致など、人間側の勝手な理由で様々な教派が生まれたのです。この地上は悪魔がもたらした罪の影響で、世界に住む人間たちの間にも完全な一致は不可能になっています。たとえどんなに仲の良い家族や親友であっても、残念ながら完全な一致は出来なかったと思います。要するにこの世界に住む限り分裂や衝突は避けられない訳ですが、それでも我々は一致団結するように努めるべきです。しかし忘れてはいけないのは、一番大事なのは「真理(神の教え)」を守ることです。分裂や論争は良くないことですが、時と場合によってはマルチン・ルターのように真理を守るために立ち上がらないといけない事もあるのです。

2・『一致の重要性(日)』『割礼と偽の兄弟たち(月)』
 長い間ユダヤ人たちは、神様に義人として認められたアブラハムの血を引いている自分達こそが、真理を受け継ぐ者として相応しいと根強く考えられてきました。しかし神様の真理を受け継ぐ真のクリスチャンとは、血筋などではなく、神様のみ心を受け継ぎ、神様を信仰して生きる人こそ、アブラハムの子であると聖書には書いてあります(ガラテヤ3:7)。本当の神様はただ一人しかおられない訳ですから、みんなが神様の方向だけを見つめているなら分裂は起こらないはずです。ですからパウロはユダヤ人クリスチャンと、異邦人クリスチャンの仲が割かれることのないよう一生懸命に努めました。しかし考え方の違いというものは必ず発生するもので、当時の論争の焦点になったのは「割礼」でした。この割礼は神様とアブラハムとの間に交わされた契約のしるしで、男子に適用される儀式でした。確かに割礼は大事な意味を持つかもしれませんが、割礼そのものが大事なのではなく、神様を受け入れたうえで割礼を受けなくては全ての儀式には何も意味がありません。外面的な割礼は、心の割礼とならなくてはいけないのです。しかしイエス様が生まれる150年前くらいには、割礼はすっかり形骸化(最初は良かったのに時間が経って形だけになってしまうこと)してしまったようです。というのは、まだ割礼を受けていないユダヤ人に対して「割礼を受けなさい。そうすれば地獄に落ちることはないだろう!」と、ある熱狂的な人達が強要したという記録が残っているからです。割礼を受けたりバプテスマを受けたりするから救われるのではありません。神様を信じて儀式を受けるからこそ意味があるのです。ちなみにパウロは割礼の事自体を反対して論争していたのではありません。割礼によって救われるかどうかという話は、神様の許し(恵み)を貰わなくても救われるかどうか、という話になってしまうので、パウロは確信に基づいて論争をしたのでした。
人は自分の力や努力では救えません。神様にしか人間を救うことは出来ないのです。

3・『多様性の中の一致(火)』『アンティオキアでの衝突(水)』
パウロは「自由」という言葉をよく使っています。イエス様も「真理はあなた方を自由にする(ヨハネ8:32)」と言われました。この真理とはイエス様を指しています。ですからイエス様を知って自分のものとした時には罪や汚れ、死の滅びから開放されるということです。また神様と一つになるということは、心が安心(幸せ)になるということです。パウロは一人でも多くの人に自由と平和を与える「真理」、すなわち「イエス・キリスト」を知ってもらうために、あらゆる努力を尽くした人でした。
12弟子のペテロはユダヤ人に対してイエス様を伝える役目を与えられましたが、パウロに与えられた目的は「異邦人に神様を知ってもらうこと」でした。ですからペテロとは違う人達を相手にしていたので伝道の方法も異なったのです。
 ペテロは神様から幻を見せられましたが、そこでユダヤ人だけが清くて特別な存在ではなく、神様を受け入れる者達を差別せずに導かなくてはいけない事を教えられました。神様は平等なお方だからです。そこでペテロは始めのうち、異邦人たちと食事や交際をしたりしていたようですが、しばらくしてユダヤ系のクリスチャンがやってくると、ペテロは同郷人の目が怖くなってこれまでの態度を変えてしまいました。ユダヤ人は異邦人となるべく交際を避ける習慣があったからです。パウロは彼のとったこの態度に「それは偽善(人によく思われたい)ではないか!」と強い言葉で訴えかけています。

4・『パウロの心配事(木)』『さらなる研究(金)』
 ペテロの取ったユダヤ人と異邦人を差別するような行動によって、教会の中心的な人物であるパウロとペテロが、みんなの見ている前で公然と衝突しました。同じ仲間に対してパウロがとった対応が激しくて驚いてしまうかもしれませんが、これは交際や食事の習慣だけの問題ではなく、最終的には「福音の真理」に関わる問題だったからです。
かつてエルサレム会議で話し合った時、たとえ異邦人クリスチャンで割礼を受けていなくても、神様の恵みは分け隔てなく注がれるという結論が出ていました。その結果ユダヤ人も異邦人も関係なく集まって、自由に交わる状態を保っていたのに、これが原因で教会の分裂を生み出してしまったのです。これは将来の教会の姿を予想させる出来事でした。またペテロだけではなくバルナバも同じように振る舞ってしまいました。人間は環境に弱い生き物なので、他人の目を気にしてしまいます。しかし人々にどう思われるかを恐れるのではなく、神様がどう思われるかを恐れるべきです。特に周囲との和を乱すことを嫌う日本人気質を強く持つ人は、この点に注意しないといけないかもしれません。個人的に自分のしたいことを抑えて他人に譲ってあげたり、優先してあげたりすることは、親切で良いことかもしれません。しかし他人に合わせたり妥協したりしてはいけない部分があります。それは真理に当てはまる部分です。それを守る事こそが神様に対する忠誠(信仰)なのです。曲げて良いものと、そうでないものをしっかりと見極める必要があります。ペテロとパウロの衝突が聖書に残されているのは我々に対する警告のためです。どんなに立派な人でも失敗するので、気を引き締めて信仰生活をおくる必要があります。悪の勢力に抵抗する勇気が与えられるよう神様に祈ってください。