第4課 廣田 信之

2017年 第3期  「ガラテヤの信徒への手紙における福音」 

はじめに
今週の教課の学びは、ガラテヤ書2:15~21を中心に学ぶことになります。
今週の暗証聖句でパウロは、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」 
ガラテヤ書2:20(口語訳聖書)
この聖句の中にパウロの信仰の全てが集約されているように思います。私たちも少しでもパウロの信仰に近づけるよう、聖霊の導きと、謙虚な気持ちで学んでみたいと思います。

今週のポイント
1.ガラテヤ2:16
 16世紀におけるマルチン・ルターを中心に起きた宗教改革の三本の柱(聖書のみ、信仰による義認、万人祭司)の一つが、「信仰による義」でした。
 ここでパウロは、人が義とされる(義と認められること)のは律法の行いによるのではない。ただキリスト・イエスを信じる信仰によるのである、と明確に述べています。
 パウロ自身、復活のイエスに出会う前はパリサイ人であり、律法に厳格であっても、そこには信仰や救いの喜びも、平安をも得ることが出来ませんでした。なぜなら、恵と平安は「御子の死によって神と和解させていただいた」関係からくるものだからです。
 「誰一人として(ユダヤ人も異邦人も)律法の行いや人間的努力を重ねて神との関係において正しくされ、義とされることはあり得ないということです。」(教課副読本P32)
私たちが義とされるのは、私たちの信仰に基づいてではなく、私たちのためのキリストの忠実さに基づいてであり、私たちは信仰によってその忠実さを自分のものとして求めるのです。
(教課P28)
「・・・・罪人が義に達することのできる唯一の方法は、信仰によってである。信仰によって、彼はキリストの功績を神のもとに持ってゆくことができ、主は御子の服従をその罪人の服従と見なしてくださる。」 (セレクテッド・メッセージ第1巻367英文、教課P31)

2.ガラテヤ2:19、20
神に義と認められようとして律法遵守という行いによって義とされたいという自分にパウロは死んでいたのです(全人的改変を経験)。パウロがキリストによって生かされることで、キリストは、キリストの命と愛の原則を彼の中に充満させることがおできになったのです。(副読本P34)

ディスカッションのテーマ
・信仰のみによる義認という教理が罪深い行為を助長するという非難について、話あってみてください。