第4課 安河内アキラ

2017年 第3期 ガラテヤの信徒への手紙における福音

第4課            信仰のみによる義認           7月22日

                                       
暗唱聖句  「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」フィリピ2:2
                                                                                         
今週の聖句  ガラテヤ2:15~21、エフェソ2:12、フィリピ3:9、ローマ3:10~20、創世記15:5、6、ローマ3:8

今週の研究 
 この聖書の箇所(ガラ2:15~21)は、新約聖書の中で最も凝縮された文言をいくつか含んでおり、極めて重要です。なぜなら、福音とガラテヤ書の残りの部分を理解するうえで基礎となる いくつかの語句が、ここで初めて登場するからです。鍵となるそのような語句には、「義認」「義」「律法の実行」「信仰」、また単に「信仰」だけでなく、「イエス・キリストへの信仰」という言葉も含まれます。
 パウロはどういう意味でこれらの言葉を使っているのでしょうか。これらの言葉は、救済計画について何を教えているのでしょうか。

月曜日:パウロはガラテヤ2:16 において、人は「律法の実行」によっては義とされない、と三度言っています。次の聖句は理解する上で助けとなります。(ガラ2:17、3:2、5、10、ロマ3:20、28)まず、「律法の実行」という言葉を理解する前に、私たちはパウロが「律法」という言葉で何を意味していたのかを理解する必要があります。律法という言葉(ギリシア語で「ノモス」)は、パウロの手紙の中に121回出てきます。この言葉は、御自分の民に対する神の御心、モーセ五書、旧約聖 書全体、一般的な原則など、さまざまなものを指すことができます。しかしパウロのおもな使い方は、モーセを通して神の民に与えられた戒め全体を指しています。
 それゆえ、「律法の実行」という言葉には、道徳律であろうと礼典律であろうと、モーセを通して神から与えられた戒めの中にあるすべての要求を含んでいるようです。パウロの論点は、どれほど熱心に神の律法に従おうとしても、私たちの服従は、神が私たちを義としてくださるには十分ではない、神の前に私たちが義と宣告されるには十分ではないということです。なぜなら、神の律法は思いと行動において絶対的な―時折ではなく、常に、また戒めの一部に対してではなく、すべてに対して―忠実さを要求するからです。

火曜日:パウロにとって、信仰は単なる抽象的な概念ではなく、イエスと密接に結びついたものでした。実のところ、ガラテヤ2:16 で「キリストへの信仰」と二度訳されている言葉は、どんな訳語が意味するよりもはるかに豊かな意味を持っているのです。原語のギリシア語を文字どおりに訳すと、この言葉は「キリストの信仰」または「キリストの忠実さ」となります。この文字どおりの訳は、私たちの「律法の実行」と、私たちの代わりに成し遂げられた「キリストの業(実行)」つまり、キリストが御自分の忠実さ(従って「イエスの忠実さ」)によって私たちのためになしてくださった業とを明確に対比していることがわかります。
 あたかも、信仰それ自体が称賛に値するかのように、信仰が義認を増し加えたりしないということを覚えておくのは重要です。むしろ信仰とは、私たちがキリストと、私たちのためのキリストの業をつかむための手段です。私たちが義とされるのは、私たちの信仰に基づいてではなく、私たちのためのキリストの忠実さに基づいてであり、私たちは信仰によってその忠実さを自分のものとして求めるのです。

水曜日:もし信仰が神への応答であるなら、その応答にはどのようなことが含まれるでしょうか。次の聖句は信仰の性質について述べています。(ヨハ 8:32、36、使徒10:43、ロマ1:5、8、6:17、ヤコ2:19)多くの人は、信仰を「信じること」と定義していますが、この定義には問題があります。なぜなら、ギリシア語で「信仰」に相当する言葉は、「信じる」という動詞の名詞形にすぎないからです。言葉の一つの形をほかの形の定義に用いることは、「信仰とは信仰を持つこと」と言っているようなものです。これでは何も説明していません。
 聖書を詳しく調べると、信仰には神に関する知識だけでなく、その知識の精神的同意、または受容が含まれていることが明らかになります。これは、なぜ正確な神のイメージを持つことが重要であるかの一つの理由です。神の御品性に対する歪んだ考えは、信仰を持つことを実際に難しくします。しかし、福音に対する知的な同意だけでは、十分と言えません。なぜなら、その意味では「悪霊どももそう信じて(いる)」(ヤコ2:19)からです。真の信仰は人の生き方にも影響を及ぼします。
  パウロはローマ1:5 で、「信仰による従順」について書いています。彼は、従順が信仰と同じだと言っているのではありません。彼が言っているのは、真の信仰は人の心だけでなく、人生全体に影響するということです。単なる規則のリストとは対照的に、信仰には私たちの主、救い主なるイエス・キリストに対する献身が含まれていま す。信仰とは、私たちが何を信じるかということと同じくらいに、私たちが何をし、いかに生き、だれを信頼するかということなのです。

 今週はパウロが最も語りたかった「信仰による義」について学びます。十字架にお架かりになったイエスさまこそが救い主であることを信じること以外に救いは無いことをパウロは力説しています。今週の学ぶガラテヤ2:15~21をよくお読みください。この中で18節には、パウロは自分で打ち壊したものと述べています。これはユダヤ教が教えている行いによって神さまの前に正しいとされることについて、イエスさまを信じることによって今までの生き方を変えた自らのことを語っています。それを再び建てることを違犯者となると彼は言っています。再び律法に頼ることをしてはならないと勧めているのです。
  彼が考えている律法とは何を指すでしょう。月曜日の学びに「モーセを通して神の民に与えられた戒め全体を指しています。」と書かれています。彼が述べたいのは、火曜日にも書かれていますが、信仰者は神さまに日々近づくことであり、そのために律法を通して神さまはわたしたちに語りかけてくださっているのです。律法は、わたしたちの何が足りないかを教えるもので、罪を示しますが罪からわたしたちを清めるものではありません。
 とても清らかな思いの方、この方の信仰にはかなわないと思わせる方に時々出会います。そのような方は、毎日身近に神さまと交わっている方ではないでしょうか。みことばを通して語られる神さまの声に従うことによって、日ごとに神さまに近づいて行くのではないでしょうか。