第4課 聴覚しょうがい者用:柳 鍾鉉

2017年 第3期  ガラテヤの信徒への手紙における福音

           第4課 信仰にのみによる義認

暗唱聖句 ガラテヤ2:20

 今週は「信仰による義」について学びます。これはキリスト教において一番大切な教理であり、教えであります。これを正しく理解することは自分自身の救いに預かることだけではなく、多くの人々をキリストへ導いて救う尊い働きに繋がります。

●パウロの義認に対する理解
パウロ自身も最初から義認の問題を正しく理解したわけではありませんでした。彼はパリサイ派の一員として律法の実行によってのみ義(正しい)とされると信じていました。そのようなパウロがイエス・キリストとの劇的な出会いによって、古い道を捨てて新しい道、即ち、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ義とされる道へと進むようになりました。

●義人は一人もいない
パウロはガラテヤ2:15で、自分は生まれながらユダヤ人であると言っています。ユダヤ人に神の律法が与えられたので、パウロは選民意識をもって自分がユダヤ人であることに誇りをもっていたと思います。ところが、それは主イエス・キリストに出会うまでのことでしたし、キリストの恵みを通して信仰による義認を正しく理解してからは何の意味もないことになりました。
パウロはローマ3:9−10で、「私たち(ユダヤ人)には何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、私たちはすでに指摘した。・・・義人はいない、一人もいない。」
つまり、パウロは律法が正しい物、聖なる物であることを認めながらも、罪人である私たちがそれを完全に守ることができないために滅びるしかない運命であることを悟ったのです。それはユダヤ人だけではなく、ギリシヤ人も全ての人類を含みます。「どれほど熱心に神の律法に従おうとしても、私たちの服従は、神が私たちを義としてくださるには十分ではない、神の前に私たちが義と宣告されるには十分ではないことです。(聖書研究ガイドーp.27参照)」

●キリストにあって義認
フィリピ3:9で、パウロは「キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と語ります。義は罪人にはもっとも掛け離れている、もっとも相応しくない言葉です。しかし、私たちがキリストに内にいる時に、キリストのゆえに罪人である私たちは義とされるのです。これが神の恵みです。つまり、キリストにあって義と認められるのです。パウロは彼の手紙の中で「〜にあって」という表現を好んで使いました。「〜にあって」の意味は、「〜の内側に」という意味があり、キリストと関係を結ぶという意味です。キリストと関係を結ぶためにはどうすれば良いでしょうか。自分の力で律法を一所懸命に守れば良いでしょうか。そうではありません。エフェソ2:8〜9に、はっきりとパウロは宣言しています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によってすくわれました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」。
恵みはキリストを通して神から与えられた物であって、信仰は与えられた恵みを感謝と讃美をもって自分の心に受け入れる私たちの自由意志による選択や応答を表します。「信仰は神への応答である」(聖書研究ガイド−p.29)。

「罪人が義に達することのできる唯一の方法は、信仰によってである。信仰によって、彼はキリストの功績を神のもとに持ってゆくことができ、主は御子の服従をその罪人の服従と見なしてくださる。」 (セレクテッド・メッセージ第1巻367英文、教課P31)

 神に義と認められようとして律法遵守という行いによって義とされたいという自分にパウロは死んでいたのです(全人的改変を経験)。パウロがキリストによって生かされることで、キリストは、キリストの命と愛の原則を彼の中に充満させることがおできになったのです。(副読本P34)

まとめ:
アダムとエバが罪を犯してエデンの園から追い出された時に、神はすでに彼らに血のついた革の衣を着せてくださいました。彼らに着せられた革の衣は主イエス・キリストです。ハレルヤ