第5課 安河内アキラ

2017年 第3期 ガラテヤの信徒への手紙における福音

第5課 旧約聖書の信仰            

暗唱聖句  「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖あがない出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」ガラテヤ3:13
                                                                   
今週の聖句  ガラテヤ3:1~14、ローマ1:2、4:3、創世記15:6、12:1~3、レビ記17:11、Ⅱコリント5:21

今週の研究 
キリストが彼らのためにすでに成し遂げてくださったことの良き知らせを、彼らが信じたからです。出だしは好調だったのに、彼らはどうして、自分たちの行いに頼らねばならない、と考えるようになったのでしょうか。

月曜日:パウロがガラテヤ3:6~8 で「聖書」と記した際に、それは何を意味していたのでしょうか(ロマ1:2、4:3、9:17 参照)。パウロがガラテヤ書を書いた当時、「新約聖書」が存在していなかったという事実を覚えておくことは重要です。パウロは、新約聖書の最初の記者でした。マルコによる福音書は、たぶん四福音書の中で最も古いものですが、パウロが亡くなった(西暦65年)頃まで、つまりガラテヤ書が書かれてからおよそ15年後までは、書かれていなかったようです。それゆえ、パウロが聖書と言うとき、彼の心にあるのは旧約聖書だけでした。
旧約聖書は、パウロの教えの中で重要な役割を果たしています。彼はそれを命のない文章ではなく、権威ある、神の生きた御言葉とみなしています。
 パウロが旧約聖書から何百回引用しているのかは判断しにくいのですが、最も短いテトスとフィレモンへの手紙を除けば、彼のすべての書簡の至る所に引用は見られます。ガラテヤ3:6~14 を読むと、これらの聖句は旧約聖書からの引用です。このことは、旧約聖書がいかに権威を持っていたかということについて物語っています。

水曜日:創世記12:1~3 を読んでください。これらの聖句は、神がアブラハムと結ばれた契約の性質について物語っています。神とアブラハムとの契約の基礎は、アブラハムに対する神の約束を中心にしていました。神は彼に、〔英語訳聖書だと〕「私は……するだろう」と4度言っておられます。アブラハムに対する神の約束は、それがまったく一方的であるがゆえに、驚くべきものです。神がすべての約束をなさっており、アブラハムは何も約束していません。私たちは通常、もし神が私たちのために何かをしてくださりさえすれば、神にお仕えします、と約束します。しかし、それは律法主義です。神はアブラハムに、何も約束することを求めず、信仰によって神の約束を受け入れることを求めておられます。言うまでもなく、それは 簡単なことではありませんでした。なぜならアブラハムは、自分自身を信頼するのではなく、完全に神を信頼することを学ばねばならなかったからです(創世記 22 章参照)。それゆえ、アブラハムの召命は信仰による救いという福音の本質を説明しています。

木曜日:罪が支払う報酬は死なので、律法を破ることの呪いは、しばしば死刑宣告でした。私たちの救いのために支払われた身代金は、取るに足りないものではありません。それは神に、御子の命という犠牲を払わせました(ヨハ3:16)。イエスは、私たちの罪を担う者となることで、その呪いから私たちを買い取ってくださったのです(Ⅰコリ6:20、7:23)。彼は自発的に私たちの呪いを自分の身に引き受け、私たちの代わりに罪の厳罰を受けてくださいました(Ⅱコリ 5:21)。
パウロは聖書の証拠として申命記21:23 を引用しています。ユダヤ人の慣習によれば、刑の執行のあとに死体が木にかけられるなら、その人は神に呪われた者でした。十字架上でのイエスの死は、この 呪いの一例とみなされました(使徒5:30、Ⅰペト2:24)。メシアが神によって呪われるという考えを理解できない一部のユダヤ人たちにとって、十字架 がつまずきの石であったのは無理もありません。しかし、これこそがまさに神の御計画だったのです。確かに、メシアは呪いをお受けになりましたが、それは彼自身の呪いではなく、私たちの呪いだったのです。

 パウロは今週の学びなど以外にも、自らの書簡の多くの箇所で、旧約聖書の言葉を引用しています。それは聖書の言葉に信頼をおいているからで、またそれを引用することで、旧約聖書で教えられていることを正しく理解させると目的もあったでしょう。
  旧約聖書から新約の時代になって変わってことがあります。旧約聖書ではキリストを予表する様々な儀式がありましたが、それらが廃止されました。けれども、ユダヤ人の中にはそれらの習慣が儀式としてしっかりと残っていたのでしょう。それらの儀式を引き続き継続することが重要とキリスト教会の中で教えている人たちに、パウロは厳しく意見を述べています。
 儀式は変わって行きますが、アブラハムに示された信仰による義の教えは、何も変わっていないことを、パウロは今週の学びのガラテヤ3:11で教えているのです。3章14節を読んでください。アブラハムが受けた祝福が、これは信仰によってわたしたちが義とされるという約束です。それがキリストの十字架の死によって、すべての人の救いとなり、全世界へ伝えられて、わたしたちも福音を知ることができたのです。