第7課 安河内アキラ

2017年 第3期 ガラテヤの信徒への手紙における福音

第7課            信仰への道     8月12日         

暗唱聖句 「しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」  ガラテヤ3:22
                                                                        今週の聖句  ガラテヤ3:21~25、レビ記18:5、ローマ3:9~19、
       Ⅰコリント9:20、ローマ3:1、2、8:1~4

今週の研究  多くの人が律法を福音から分けようとします。両者を矛盾するものだと考える人たちさえいます。このような見方は間違っているばかりか、悲劇的な結果を招きかねません。律法なしに、私たちは福音を得られないでしょう。律法なしに福音を理解することは、実に困難です。

日曜日:律法の役割について、パウロの敵は誤った考えを持っていました(ガラ3:21、レビ18:5、申6:24 を比較)。この人たちは、律法が霊的な命を彼らに与えることができると信じていました。彼らの見解は、たぶんレビ記18:5 や申命記6:24 のような旧約聖書の聖句の誤解から生じたのでしょう。それらの聖句では、神の契約の内にいる者たちがいかに生きるべきかを、律法が命じています。律法は契約の範囲内で生活を規制しましたが、彼らは、律法が神と人の関係の源だと結論づけたのです。しかし、聖書は明快です。「生かす」能力は、神と神の霊によってのみ行使される力なのです(王下5:7、ネヘ9:6、ヨハ5:21、ロマ4:17)。律法はだれをも霊的に生かすことができません。しかしこのことは、律法が神の約束と対立するという意味ではありません。
律法が命を与えられないということを証明しようとして、パウロはガラテヤ3:22に、「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」と記しています。また、彼はローマ3:9~19 において、私たちがいかに悪いかを示すために、旧約聖書から抜き出した一連の聖句を引用しています。これらの聖句は、でたらめな順序でつなぎ合わされているのではありません。彼は罪という問題の核心(人間の心に巣食っている利己的な態度)から始め、罪の広がり、最後には罪の普遍性を説明する聖句へと移って行きます。
彼は何が言いたいのでしょうか。罪の深さと律法の限界のゆえに、永遠の命の約束は、私たちのためのキリストの忠実さによってしか与えられないということです。ここにもまた、宗教改革を推進した大いなる真理があります。

水曜日:養育係としての律法というパウロの説明は、律法の役割に対する彼の理解を一層明らかにしています。律法が加えられたのは、罪を指摘し、指導するためでした。この任務のまさに本質は、律法も否定的な側面を持つことを意味します。それゆえに、律法は私たちを罪人として非難し、罪に定めるのです。しかし、この「否定的な」側面でさえ、神は私たちの利益のためにお用いになります。なぜなら、律法がもたらす有罪宣告は、私たちをキリストへと駆り立てるものだからです。それゆえ、律法と福音は矛盾しません。神は私たちの救いのために、両者が協力して働くように意図されたのでした。「この聖句〔ガラ 3:24〕の中で、聖霊は特に道徳律について、使徒 〔パウロ〕を通じて語っておられる。この律法は、私たちに罪を示し、キリストの必要を感じさせる。そして、神に対する悔い改めと私たちの主イエス・キリストに対する信仰を用いることで、赦しと平安を求めて私たちを彼のもとへ逃れさせるのである」(『セレクテッド・メッセージ』第1 巻234 ページ、英文)。

木曜日:ローマ8:1~3を読んでください。キリストによって赦された結果として、私たちと律法との関係は今や異なります。私たちは今や、神に喜ばれる生き方をするように召されているからです(Ⅰテサ4:1)。パウロはこのことを、霊によって導かれると呼んでいます(ガラ5:18)。これは、道徳律はもはや適用できないという意味ではありません。私たちは、律法が罪を明らかにするものであるとはっきり知ったのに、どうしてそんなことがありうるでしょうか。
そうではなく、律法は神の御品性の写しですから、私たちは律法を守ることによって神の御品性を反映するということです。しかしそれだけでなく、私たちは単に一連の規則を守るのではなく、律法がなしえなかったことを私たちのためにしてくださるイエスの模範に従うのです。イエスは私たちの心に律法を書きつけ(ヘブ8:10)、律法の義の要求が私たちの中で満たされるようにしてくださいます(ロマ8:4)。言い換えれば、イエスとの関係を通して、かつてなかったほど、私たちは律法に従う力を得るのです。

 今週はガラテヤ人への手紙の、もっとも有名な3章24節の前後について学びます。「律法はキリストへ導く養育係である」とパウロは述べています。これは今週の研究のところにも引用しましたが「律法なしに、私たちは福音を得られないでしょう。律法なしに福音を理解することは、実に困難です。」とありますが、律法と福音を切り離して考えるものではないことを今週は学びます。
 今期、何回も書いていますが律法に罪人を救う力がありません。逆に律法を通して真理を教えることによって、罪が何かを知り自らの罪深さ知ることになるのです。そのことを今週の暗唱聖句は教えています。
 人間が罪の現実、限界を悟ることのよって、キリストの十字架にすがる以外に救いがないことに気づかされ、そしてキリストへ導かれて行くのです。律法はこのための養育係なのです。福音が善で、律法が悪、福音が必要で律法が不要などということはありません。どちらも大切なのです。
 そして数期前の教課に書かれていましたが、ローマやガラテヤの手紙では、パウロは律法を重視する人たちに、信仰による義を強調するために書かれている個所があります。けれども全体を見れば、パウロは律法と福音のどちらも必要であると教えています。このことを今週学んでください。