第8課 安河内アキラ

2017年 第3期 ガラテヤの信徒への手紙における福音

第8課         奴隷から相続人へ      8月19日        

暗唱聖句 「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」  ガラテヤ4:7
                                                                      今週の聖句  ガラテヤ3:26~4:20、ローマ6:1~11、
       ヘブライ2:14~18、4:14、15、ローマ9:4、5

今週の研究  パウロはガラテヤの人たちに、奴隷として行動するのではなく、あらゆる権利と特権を持つ神の息子、娘として行動しなさい、と述べています。

月曜日:パウロが、キリストの来臨前の人間の状態を「未成年」と強調していることは、彼がここで宗教生活の基本原則に言及していることを示唆します。もしそうであれば、律法といけにえを伴った旧約聖書の時代は、救済の基本を概説した福音の入門書にすぎなかったと、パウロは言っているのです。従って、礼典律はイスラエルにとって重要かつ教育的なものではありましたが、やがて来るべきものの影にすぎませんでした。それらは、キリストに取って代わることを意図したものではなかったのです。
キリストではなく、このような掟によって人の生活を規制することは、過去に戻りたいと思うようなことです。ガラテヤの人たちにとって、キリストがすでに来られたあとにそのような基本的な要素に戻ることは、パウロの比喩において、成人した息子が再び未成年になりたいと思うようなことでした。

火曜日:パウロが「満ちる」という言葉を選んだことは、人類史の中で神が御自分の目的を果たすために積極的な役割を担っておられることを示しています。イエスは好きな時においでになったのではありません。彼は、神がお定めになったまさにその時に来られたのです。歴史的観点から見れば、それは「ローマの平和」(ロー マ帝国の全域において比較的安定し、平和だった200 年間)として知られる時代でした。ローマが地中海世界を征服したことで、平和、共通の言語、旅行に好都合な手段、共通の文化など、福音の急速な広がりを容 易にしたものがもたらされました。聖書的観点から見れば、その征服は、約束されたメシアの到来のために神が定められた時代を画したのです(ダニ9:24~27参照)。

水曜日:パウロはガラテヤ4:5~7において、彼の主題を広げ、キリストが今や「律法の支配下にある者を贖い出し」(ガラ4:5)てくださったことを強調しています。「贖う」という言葉は、「買い戻す」ことを意味します。それは、捕虜や奴隷の自由を買うために支払われる代価を指しました。このような状況が示すように、贖いは、否定的な背景が あることを意味します。解放されるべき人がいるということです。
私たちは何から解放される必要があるのでしょうか。新約聖書は、とりわけ4つのことをあげています。①悪魔とその策略からの解放(ヘブ2:14、15)、②死からの解放(Ⅰコリ15:56、57)、③生まれつき私たちを奴隷にしている罪の支配力からの解放(ロマ6:22)、④律法の有罪判決からの解放(ロマ3:19~24、ガラ3:13、4:5)。

 今週の聖句、ガラテヤ3:26~4:20をお読みください。特に後半でパウロがとても厳しい口調で語っています。先週の学びから続く福音の本質を何とか伝えたいという彼の熱意が伝わってきますね。その中で、「あなたがたのうちにキリストの形ができるまでは」(ガラテヤ3:19)とあります。わたしたちはキリ ストが十字架にお架かりになってから約2000年後に暮らしています。しかしガラテヤの方々は、キリストの十字架からあまり時間が経過していません。ユダヤ人の中では、それまでの儀式や習慣も身近で行われていたかもしれません。また聖書や福音について語られている多くの書籍も無かったでしょう。そのような中から、キリストの十字架を信じることで救われるという福音をなかなか理解することができなかったのかもしれませんね。
 わたしたちの中にも「キリストのかたち」ができあがっているでしょうか。キリストの福音による救いではなく、善行や断食などを積み重ねることによって自らの救いを求めたりはしていないでしょうか。また救いを信じるだけでなく、キリストの愛を実践したり、品性を備えているでしょうか。それによって救われるわけではありませんが、あなたが幸せに暮らすために、そしてまわりの方々も幸せになるためになくてはならないものです。