第9課 長田 和信

2017年 第3期  「ガラテヤの信徒への手紙における福音」 

●第9課「パウロの牧会的訴え」は、副読本では、「牧師の心」となっています。私たちは、第1章~3章まで、「神学者」パウロに耳を傾けて来ました。しかし、4章12節~20節において、私たちは「牧会者」パウロに出会います。これまで、パウロは読者の「知性」に語りかけて来ましたが、ここに来て、「心」に語りかけて来ます。読者に対する呼びかけ方も、辛辣な「物分かりの悪いガラテヤの人々」(ガラテヤ3:1)から「わたしの幼な子たち」(ガラテヤ4:19)という愛を感じさせる言葉に変化しています。ガラテヤ書執筆時点のパウロは、「知性」と「愛」の両面を発達させた人になっていたことがわかります。「信仰」によって、かつての冷酷な「迫害者」パウロが変えられていることが分かります。

●ところで、今週の暗唱聖句はガラテヤ書4章12節です。「兄弟たちよ。お願いする。どうか、わたしのようになってほしい。わたしも、あなたがたのようになったのだから。」この聖句の意味するところは何でしょうか?「パウロのような素晴らしい人格を持った人になってほしい」あるいは「パウロのように罪を犯さない人になってほしい」ということでしょうか?そうではありません。ガラテヤ書全体を俯瞰するとき、この聖句の意味が明瞭になります。当時のガラテヤ教会は、偽教師たちが持ち込んだ偽りの福音によって、混乱が生じていました。「信仰による救いと行いによる救い」という偽りの福音(聖研ガイド2頁)です。しかし、「信仰による義」を訴えるパウロは、かつては「行い」のエキスパ-トだったのです。パウロほど「行いによる義」を徹底追求した人物はいませんでした。でも、できなかったのです。パウロは徹底的に打ち砕かれて、「信仰による義」を体験しました。

●副読本65頁に、「彼ら(パウロとペテロ)は両者とも、彼らが義とされた経験は、律法の行いを通してというよりも信仰を通して与えられたという事実を理解していました(2章16節)」とあります。パウロが、「わたしのようになってほしい」と言った意味は、「信仰プラス行い」によって救われようとする考えをやめて、「信仰」によって救われてほしい、という意味なのです。「信仰」があれば、「行い」は聖霊の実として後からついて来ます。

●副読本68頁に、次のような助言がありました。「もしあなたが教会で罪悪感を覚え、そぐわない者であると感じ、喜びなど感じられないというのであれば、あなたがどこに焦点を合わせているのかチェックしなさい。あなたは、日々の暮らしで、キリストを信じる信仰によって生き生きとした関係を楽しんでいますか。それとも他の人たちの要求とか期待に合わせ、奮闘努力して生き延びようとして疲れるかあきらめていますか。」

●日本人的精神文化の一つに、「同調圧力」と言うものがあります。周囲の期待に対して、過剰に自分自身を合わせてしまう国民性があるのです。日本の教会においては、無自覚的に、この「同調圧力」に縛られ、苦しめられてはいないでしょうか?上の助言、一考する価値があると思いました。私たちは、先ず、個人が「キリストに結ばれた生き生きとした関係」を楽しむ信仰者でありたいと思います。そこから、伝道の輪が拡がって行きます。