第9課 聴覚しょうがい者用:武田 将弥

2017年 第3期  ガラテヤの信徒への手紙における福音

第9課 パウロの牧会的訴え

1・『今週のテーマ』『パウロの心(日)』
パウロはガラテヤ教会の人達にはストレートに気持ちを込めて言葉を伝えていましたが、それは教会や仲間と神様のことを大切に思っていたからでした。ガラテヤの人達を惑わせていた偽教師たちとは違い、パウロは彼らが辿る将来について本当に心配していたのです。特に救いに関わる神学の問題は何よりも大事なポイントなので、パウロは熱心に受け取り方を正しましたが、それは愛する教会の人達を何とかして正しい救いの道に導こうとしていたからです。ガラテヤ4:12では「お願いする。」と翻訳されていますが、それは十分ではないかもしれません。元々のギリシャ語では「デモマイ」という言葉が使われており、これには「どうかお願いだから!」という強い気持ちが込められているそうです。このことから分かるように、パウロはガラテヤ教会の人達に特別な気持ちを抱いていましたが、この人達の多くは苦労してパウロが伝道した者達だったからです。ですからパウロは彼らにとって同じ信仰を持つ友人でもあり、霊的な意味で父親や教師のようでもありました。その子供のような存在である教会が危機的状況にあることを知り、パウロは神様から伝道の仕事を任されている責任感と、大切な友人たちを霊的な意味で失うかもしれないという焦りの気持ちが、この「デモマイ(どうかお願いだから!)」という呼びかけから読み取れます。偽教師たちに惑わされて悪影響を受けた彼らに向かって、もう一度立ち直ってくれるようにパウロは願って(祈って)いますが、それは見せかけの変化ではなくキリストによる成長と変化をお願いしているのでした。

2・『なることへの挑戦(月)』『私はあなたがたのようになった(火)』
 パウロはさまざまな手紙の中で何度もクリスチャンのお手本や模範として、自分を参考にしてほしいと勧めています。たとえばⅡテサロニケ3:7~9では、他人の迷惑や負担にならないように、自分の食べる分の生活費はちゃんと働いて稼いでいますし、Ⅰコリント11:1では自分のことよりも他人の幸福を祈り求めるように呼びかけています。パウロは人生と生活の全てにおいてキリストを手本としていたので、そんなパウロの生き方を参考にすると、そのままイエス様を模範にすることになるのです。
パウロがガラテヤの人達に求めていたのは「私のようになってください(同4:12)」というものでした。「まねる」とか「~しなさい」ではなく、自然と身についている状態になってくださいとお願いしているのです。これはガラテヤの人達だけではなく、全てのクリスチャンが目指すべき状態です。神様だけが人間を救えるのだと完全に信じ切って欲しかったのです。彼はそれを伝えるために色々な方法を取りました。

3・『当時と現在(水)』
 詳しいことは分かりませんが、ガラテヤ4:13によるとパウロは伝道旅行中に大変困った状態になったようです。きっと蚊に刺されてマラリヤという病気になったのだとか「ガラテヤの人達は自分の目をえぐり出してでも、パウロに与えようとした」という聖句があるように、目の病気になったのではないだろうか?と考える学者もいるようですが詳細不明です。分かっていることは、その困った時にガラテヤの人達はパウロをとても親切にもてなし、彼の説く説教(イエス・キリストの福音)を喜んで受け入れたことです。パウロの素晴らしい点は、たとえ病気や困難が襲ってきても、それを理由にして伝道や信仰を絶対に諦めなかったところです。またガラテヤの人達の素晴らしい点は、パウロの説教を、偏見を持たずに熱心に聞いたことです。というのは当時の考え方では病気にかかっている人は、きっと神様から良く思われていないから苦しんでいるのだ…という見方をする人が多かったようです。しかし神様(聖霊)が導きと応援をしてくださったおかげで、パウロとガラテヤの人達の間には強い絆が生まれたのでした。

4・『真理を語る(木)』『さらなる研究(金)』
 「真理」とは「時代や環境などに影響されず、永遠に変わることのないもの」です。我々クリスチャンはそれが「神様(聖書)」だと知っています。ですから「真理とは何ですか?」と人に質問されれば、それは「神様(聖書)のことですよ~」と答えることが出来るのです。しかし真理を語る時には注意をしてください。なぜなら真理(聖書・神様の教え)は神様と同じように正義の力を持っていますから、使い方によっては人を正しい道に導きますが、軽はずみな間違った使い方をすると人を大きく傷つけてしまうからです。ですから真理を語る時には、人を傷つけないように注意しながら、愛をもって優しく諭すことが大事です。パウロも人々を正しい方向に導くために何度も真理を語っていますが、それは彼が「俺が教えてやるんだ!こいつらは間違っているから正してやろう!」という上から目線の気持ちからではなく、愛の気持ちから出たものだったのです。
パウロは(これを言ったら、きっとみんなに嫌がられる…正しいことだけど、嫌われたくないから言いたくないなぁ~)などと、自分の心配をしていません。彼は自分がどう思われるかの心配よりも、みんなの霊的状態を心配して、まるで親や学校の教師のように、正しく幸福につながる道へと一生懸命に導こうとしているのです。
 真理を語る人が愛をもって注意しているかどうかの判断基準ですが、普段からプライドが高く、注意するときに「感情」が入っている人は要注意です。こういう人はなぜ注意するかというと「自分の思い通りに人を変えたい」という気持ちが入っています。これは支配的な心ですので良くありません。「これはあなたの為を思って言っているのですよ」と正しそうな説明をして、上手く人をごまかせたとしても、神様は騙せません。その説明と気持ちが本当なのかウソなのかは、最後の審判の時に明らかにされるでしょう。
愛情から注意する人はイエス様の様に祈りつつ、人に嫌われたくないという自分の心配よりも、人を大切と思う心配で動く人です。こういう人は注意する時に激しい感情や、追い詰めるような言葉は使わず、普段から落ち着いた気持ちで生活し、人を優しく諭します。そして人に注意するだけではなく、自分自身の事にも注意を払って生活を送っている人です。注意する時も相手を傷つけないように言葉や場所を考えて配慮します。子育てや教育現場をイメージすると分かりやすいかもしれません。大人が子供に嫌われたくないからという理由で注意しないでいると、後でとんでもないことになってしまいます。子供はワガママな大人になってしまい、社会に出てから苦労します。また学校も家庭も滅茶苦茶になってしまいます。これと同じで、大事な真理はたとえ嫌われても教えなくてはいけないのです。ガラテヤ教会とパウロの関係もこれに似ていました。パウロは一生懸命に祈りながら訴えた結果、多くの者達が心を入れ替えて、以前の福音の信仰に立ち返ったのでした。正しい訴えをするとき、そこに愛(キリスト)を含めるのを忘れてはいけません。