第10課 安河内アキラ

2017年第4期「信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙」

10課             約束の子          12月9日

暗唱聖句 「このように神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、
      かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」ローマ9:18

今週の聖句  ローマ9章

今週の研究  いつものようにパウロが言っていることのより大きな全体像を見ることでわかります。パウロがここで取っている論法は、「選ばれた」者として神がお用いになる人たちを選ぶ権利が神にあることを示そうとするものです。要するに、神は世界伝道の最終的な責任を負っておられる方です。それゆえ、神が望まれる人を、だれであれ神の器として選べないことがあるでしょうか。神がだれをも救いの機会から切り離したりなさらない以上、神の側のそのような行為は自由意志の原則 に反しません。

月曜日:「『兄は弟に仕えるであろう』と、リベカに告げられました。……『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりです」(ロマ9:12、13)。「今週のテーマ」で述べられているように、パウロが個人の救いについて語っているのではないということを認識するまでは、ローマ9章を正しく理解することはできません。パウロはここで、神がある個人を召して果たさせようとしておられた特定の役割について語っているのです。神は、ヤコブがこの世において神の特別な伝道者となるであろう人々の先祖になることを望まれました。この聖句には、エサウが救われえなかったという意味合いはありま せん。神は、すべての人が救われることを望んでおられるように、エサウが救われることも望まれました。

火曜日:ローマ9:17~24を読んでください。出エジプトの際、神はあのようにエジプトに対処することで、人類の救いのために働かれました。エジプトにくだった災いや神の民の解放によって神が御自身を啓示されたのは、イスラエルの神が確かに本当の神であることをエジプトやほかの国々に示す意図からでした。それは、諸国の民が彼らの 神々を捨て、本当の神を礼拝するよう、招くためだったのです。
どう見ても、ファラオは神に逆らう選択をすでにしていました。従って、神はファラオの心をかたくなにすることにおいて、彼を救いの機会から閉め出しておられたのではありません。その心のかたくなさは、イスラエルを去らせよという訴えに対するものであって、個人的な救いを受け入れよというファラオへの神の訴えに対するものではありませんでした。キリストは、モーセやアロン、またイスラエルの子らのほかの者たちのために死なれましたが、同様にファラオのためにも死なれたのです。

木曜日:この9章が終わる前に、パウロは旧約聖書から別の引用をしています。「『見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない』と書いてあるとおりです」(ロマ9:33)。この箇所でパウロは、救済計画において真の信仰がいかに重要であるかを改めて示します(Ⅰペト2:6~8も参照)。なぜ妨げの岩なのでしょうか。妨げの岩なのに、なぜそれを信じる者は、失望することがないのでしょうか。多くの人にとって、確かにイエスはつまずきの石ですが、イエスを知り、愛する者たちにとって、イエスは別の種類の岩、「救いの岩」(詩編89:27、口語訳89:26)なのです。

 今週の学びのローマ9章は「予定説」を信じる方々の根拠となっています。予定説は、神さまは最初から救われる方を予定しているという考えです。ですから、こちらから働きかけるのではなく、救われる方が決まっているのだから、伝道などをせずにその方々が教会に来るのを待っているという考えです。
 聖書を読む時には、聖書全体から解釈をしなければなりません。聖書は、神さまはすべての人が救われることを願っていらっしゃることははっきりしています。ではなぜこのようなことが書かれたのでしょう。今週の研究に引用しましたが「『選ばれた』者として神がお用いになる人たちを選ぶ権利が神にあることを示そうとするものです。」とあります。神さまは、み言葉を人に託されました。そして人を通して多くの人が神さまの愛を選ぶように用いられます。そのために神さまが必要な人をお選びになるというのが ローマ9章で伝えたいことなのです。
 そして神さまが選ばれる人や民族は、優れているから選ばれるのではない場合が多いです。弱い者、力のない者が大きな働きをすることによって、支えられた神さまの力がはっきりと証しされるのです。 月曜日、火曜日はエサウやパロ王のことなど ケースについて書かれています。ぜひお読みください。
 木曜日に「つまずきの石」として、キリストのことが書かれています。全世界でたくさんの方々が聖書からキリストを救い主として受け入れました。けれども、つまずいて教会から離れて行ってしまった方々がいることも事実です。それがどのような理由であれ、自らが選んだことなのです。もちろん神さまは、そのような方々の心へ、今も熱心に働きかけてくださっています。決して今の時点で救われている、いないが決まっているのではないということを覚えてください。