第3課 安河内アキラ

2017年第4期「信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙」

       3課     人間の状態    10月14日

暗唱聖句 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」 ローマ3:23

今週の聖句  ローマ1:16、17、22~32、2:1~10、17~23、3:1、2、10~18、23

今週の研究  ローマ書の早い段階で、パウロは重要な真理、福音の中心である真理-人間の惨めな状態-を明らかにしようとします。この真理が存在するのは、人間が罪に堕ちて以降、私たちがみな罪に汚れているからです。目の色が遺伝子と深く結びついているように、罪は私たちの遺伝子と深く関係しています。

月曜日:ローマ3:10~18 を読んでください。私たちの状況は、私たちが悪いほどに絶望的ではありません。最初の一歩は、私たちが心底罪深いことと、それに関して何もできない自分自身の無力さを認めることです。そのような罪の自覚をもたらすのは、聖霊の働きです。もし罪人が反抗しないなら、聖霊はその人から自己防衛や見せかけや自己正当化の仮面を引きはがし、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)と、キリストの憐れみにすがれるようにその人を導いてくださいます。

水曜日:パウロはローマ1 章において、はるか昔に神を見失い、最も恥ずべき習慣に陥っていた異邦人の罪、異教徒の罪を特に扱っていました。しかしパウロは、自分の仲間や同胞を見逃すつもりもありませんでした。これまで与えられてきたあらゆる優位性にもかかわらず(ロマ3:1、2)彼らもまた、神の律法によって有罪宣告を受けた罪人であり、キリストの救いの恵みを必要としていました。その意味において、つまり罪人であり、神の律法を犯してきており、救いのために神の恵みを必要としているという意味において、ユダヤ人も異邦人も同じなのです。
ここにおけるパウロの論点は、私たちのだれもが正しくなく、だれもが神の基準を満たしておらず、だれもが本質的に善でもなければ、生まれながらに聖なる者でもないということです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、男であれ、女であれ、金持ちであれ、貧しい人であれ、神を畏れる人であれ、神を拒む人であれ、私たちはみな罪に定められています。そして、福音の中に示されている神の恵みがなければ、だれにも希望はないでしょう。

木曜日:神の強制力ではなく、神の憐れみが罪人を悔い改めに導くということに、私たちは注目すべきです。神は強制力をお用いになりません。神は限りなく忍耐深く、すべての人を愛で引き寄せようとなさいます。強いられた悔い改めは、悔い改めの目的をすっかり台なしにしてしまうでしょう。もし神が悔い改めを強制なさるなら、すべての人が救われるのではないでしょうか。なぜなら、神がある人は悔い改めさせ、ある人は悔い改めさせないということはないだろうからです。悔い改めは、自由意志の行為、私たちの生活の中における聖霊の働きへの応答であるはずです。確かに、悔い改めは神からの贈り物ですが、私たちはそれを受け入れるために心を備え、開く必要があります。その選択は、私たちだけが自らできるものなのです。

 今期の学びの1,2課で、ローマ書の背景などを学びました。今週からいよいよ本論に入ります。パウロはローマ書の最初に、ユダヤ人もほかの人々もすべて罪人であると述べています。ローマ1:16、17で、このようなわたしたちが救われるのは、十字架による福音であること、その福音を信じることによって義とされると教えています。
 木曜日の引用文をよく読んでください。救われるために神さまのなさることと、わたしたちがしなければならないことがあります。神さまは、わたしたちがやらねばならないことをかわりにしてはくださいません。
神さまは、まずキリストの十字架によって救いへの道を開いてくださいました。次にわたしたちがやらねばならないことです。それを信じて、救われるために神さまの約束に信頼するかです。これはあなたが決めなければなりません。信じるためには、律法によって示された罪の悔い改めが必要です。その悔いた魂を神さまは受け入れて、次の道へ導いてくださるのです。その導きを信じて前進するときに、また次の道が開かれていきます。