第4課 安河内アキラ

2017年第4期「信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙」

       4課     信仰によって義とされる    10月28日

暗唱聖句 「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」 ローマ3:28

今週の聖句  ローマ3:19~28

今週の研究  救済計画において、私たちはだれもが犯罪者です。身代わりの者であられるイエスは完璧な記録を持っており、私たちの代わりに法廷に立ち、その義が私たちの不義の代わりに受け入れられます。こうして私たちは神の前に義と認められます。私たちの行いによってではなく、イエスによって、つまり私たちが「信仰によって」受け入れるときに私たちのものとなるイエスの義によってです。良い知らせとは、まさにこのことでしょう。それどころか、これ以上に良い知らせなどありえません。

日曜日:律法の下にいるというのは、その管轄下にあることを意味します。しかし、律法は人の欠点や罪を神の前に明らかにします。律法はその罪を取り除くことができません。できることは、罪の治療法を探すように罪人を導くことです。
ユダヤの律法がもはや影響力を持たない現代にローマ書を適用するとき、私たちは律法を、特に道徳律の観点から考えます。この律法は、ユダヤの制度がユダヤ人を救えなかったのと同様、私たちを救うことができません。罪人を救うことは、道徳律の機能ではありません。その機能は、神の品性を明らかにし、その御品性を反映するのに人間がいかに不十分であるかを示すことなのです。

月曜日:イエス・キリストの信仰がここにあります。それは疑いもなく、イエス・キリストを信じる信仰です。信仰はクリスチャン生活において働きますが、それは単なる知的同意以上のもの、キリストの生涯と死に関する何らかの事実を認めること以上のものです。そうではなく、真にイエス・キリストを信じることとは、キリストを救い主、身代わり、保証人、主として受け入れることです。それは、キリストの生き方を選ぶこと、キリストを信頼し、信仰によってその掟に従って生きようとすることなのです。

木曜日:律法を行うことで、過去の罪を贖うことはできません。義認は獲得することのできるものではありません。それは、キリストの贖いの犠牲により、信仰のみに よって与えられるものです。ですから、この意味において、律法を行うことは義認と何ら関係がありません。行いなしに義とされるということは、私たちの中に は義認に値するものが何もないのに義とされることを意味します。
しかし、多くのクリスチャンがこの聖句を誤解し、これまで誤用してきました。彼らは、人がすべきことは信じることだけだと言い、行いや服従、道徳律を守ることさえも軽視するのです。彼らはそうすることによってパウロを完全に誤解しました。ローマ書やほかの書において、 パウロは道徳律の順守を非常に重視しています。イエスも確かにそうでしたし、ヤコブやヨハネもそうです(マタ19:17、ロマ2:13、ヤコ2:10、11、黙14:12)。パウロが言いたかったのは、律法を守ることは義認の手段ではないが、信仰によって義とされた人は、なおのこと神の律法を守るということ、それどころか、神の律法を守ることができるのは、信仰によって義とされた人だけなのだということなのです。義とされておらず、生まれ変わっていない人は、律法の要求を満たすことができません。

まず月曜日の引用文を見てください。信仰によって義とされるというのが今週の題ですが、何を信仰するのかが書かれています。「それは単なる知的同意以上のもの、キリストの生涯と死に関する何らかの事実を認めること以上のものです。」と書かれています。信仰について簡潔に書かれているヘブライ11章1節には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。望んでいる事柄や天国、これからの希望を神さまが最善に導いてくださることを信じることはわかります。見えない事実、これは新共同訳の訳がとてもわかりやすいのですが、創造から始まったすべてできごとを、わたしたちは見ていませんが、それを事実と信じること、これが信仰なのです。そこに表されている神さまの力を信じることでもあるのです。
 そして信仰の中心にキリストの十字架があります。十字架を事実と信じて、その十字架にこそ救いがあることを信じるのです。以前も書いていますが、神さまの役割とわたしたちが決めねばならないこともあるのです。神さまはキリストの十字 架を通して罪の赦しの道を開かれました。次はわたしたちがその力を信じる時に、神さまは わたしたちのすべての罪を覆ってくださり、義なるものと認めてくださるのです。
 本文の火曜日に書かれていますが、これはわたしたちが努力をして完全なものとなったのではなく、ただ神さまの恵みなのです。あなたへの備えらえた恵みを受け取るのは、あなたが十字架を信じなければならないのです。