第5課 安河内アキラ

2017年第4期「信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙」

       5課     アブラハムの信仰    11月4日

暗唱聖句 「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」 ローマ3:31

今週の聖句  創世記15:6、サムエル記下11章、12 章、ローマ3:20、31、4:1~17、ガラテヤ3:21~23、Ⅰヨハネ3:4

今週の研究  律法の行いによってではなく、恵みによって救われる者の例として聖と徳の鏡であるアブラハムを用いることによって、パウロは読者に誤解の余地を与えていません。もし最高の人の行いや律法順守が、神の前にその人を義とするのに十分でないのなら、ほかのだれにどんな望みがあるでしょうか。もしアブラハムが恵みによって義とされたのなら、だれもが同じでなければなりません。

火曜日:ローマ4:13 において、「約束」と「律法」が対比されています。パウロは、信仰による義という教えのために、旧約聖書の裏づけを構築しようとしているのです。彼は、すべてのユダヤ人が自分たちの祖先として認めていたアブラハムの中に例を見いだします。神の受容や義認は、律法とはまったく関係なくアブラハムにもたらされました。神は、「世界を受け継がせること」を彼に約束され、アブラハムはこの約束を信じました。つまり、彼はこの約束が意味する役割を引き受けたのです。 結果として、神は彼を受け入れ、彼を通してこの世を救うために働かれました。これは、いかに恵みが旧約聖書において機能していたかの絶好の例であり、間違いなく、パウロがそれを用いた理由でした。

水曜日:パウロはガラテヤ書において、律法と信仰の関係を説明しています(ガラ3:21~23)。もし命を授けることのできる律法があったとしたら、それは確かに神の律法だったことでしょう。しかしパウロは、いかなる律法も、神の律法でさえも、命を与えることはできないと言います。なぜなら、すべての人は神の律法をすでに犯しており、それゆえその律法によって罪に定められているからです。
しかし、キリストによって一層はっきり示された信仰の約束は、信じるすべての人を「律法の支配下」から、つまり罪に定められ、律法を通して救いを得ようとする重荷を負った状態から解放します。律法は、信仰や恵みなしに提供されるとき、重荷になります。なぜなら、信仰、恵み、信仰によってもらされる義がなければ、律法の支配下にいることは、重荷の下、罪の有罪宣告の下にいることを意味するからです。

木曜日:人々が、新しい契約において律法は廃されたと言い、続いて、その主張を裏づけていると彼らが考える聖句を引用するのを、私たちはしばしば耳にします。しかし、その発言の背後にある論理は正しくありませんし、神学でもありません。
  同様に、もし神の律法が廃されたなら、どうして嘘や殺人や盗みは、依然として罪や誤りであり続けるでしょうか。もし神の律法が変更されたなら、罪の定義も変えられなければなりません。あるいは、もし神の律法が廃されたなら、罪も変えられなければならないなどと、だれが信じるでしょうか(Ⅰヨハ1:7~10、ヤコ1:14、15も参照)。

 パウロは、ローマの教会にいる旧約聖書をしっかりと読んでいる、おそらくユダヤ人のクリスチャンに向けて、彼らがよく知っていてわかりやすいたとえとして、アブラハムとダビデのことから、旧約聖書の時代も信仰による義であったと教えています。
  ローマ人への手紙もガラテヤ人への手紙、律法と福音、それぞれの果たすべき役割についてパウロは繰り返して教えています。そこで問題とされている律法を行うことで救いを求める人は、信仰的ではないのでしょうか。逆に彼らはとても熱心に、救いに至るためにできることをしようとしているのです。律法主義は熱心な方の方が陥りやすいのです。そして熱心だからこそ、自分だけでなく周りの人にも勧めたり、裁いたりもしてしまうのです。
 マルチンルターが修道士として、いかにして清い人間になることができるのかを追求し、神の義に近づこうとしました。けれども神の義が、わたしたちが到達できるものではなく、十字架にあらわされた愛に気づいた時に、彼は自らの力で義を求めるのではなく、神さまの憐れみによって義としていただくという聖書の教えによって救われたのです。
 熱心に自らの救いを求めている時に平安はありません。なぜなら、自らの想いと理想とがかけ離れていることに気づかされるからです。今週の学ぶアブラハムもダビデも、善い行いの結果ではなく神様の憐れみによって救いを得たのです。この救いは、同じように信じる私たちにも与えられています。