第5課 聴覚しょうがい者用:山路 俊晴

2017年第4期「信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙」

第5課         アブラハムの信仰      山路 俊晴

はじめに
 今週はローマ4章を学びます。パウロはローマの教会に、正しい救いの教理を伝えました。ユダヤ人たちそして、歴史上多くの人たちが信じているように、よい行いをしたら救われるとか、信仰と共によい行いをするとき救われるなどの間違った考えを抱かないように手紙を書きました。ユダヤ人たちの常識は、律法を守るとき、神様の前に正しいものと認められ、救われるというものでした。この間違った考えを正すことは大変でした。ユダヤ人が信仰の父として尊敬しているアブラハムとダビデの言葉を用いて、パウロは説得しています。この間違いは、歴史の中で絶えず繰り返されています。500年前にはルターによって訂正がなされ、また現代も信仰のみによる救いの教えに立ち返る必要があります。
 
日曜日(29日)「律 法」
 多くのユダヤ人たちが、律法に対して正しく理解していませんでした。パウロ自身もはじめは誤解していました。イエス・キリストと直接出会い、パウロは神様の本当の救いに関して理解できました。その時、旧約聖書(ユダヤ人たちにとっての聖書)は新約聖書と同じ恵みによる救いを教えていることが明らかとなりました。神様の恵みとは、罪を犯した人を救ってくださるという神様の約束を信仰を持って受け入れるとき、神様はその罪びとを、罪のない人として認めてくださるという教えのことです。救いはあくまでも神様の恵みによるもので、律法を守るよい行いによるものではありません。ダビデが家来の奥さんを奪ってしまう大きな罪を犯したにもかかわらず、神様に赦され、祝福されたのは神様の恵みのおかげでした。律法を守り、それを大切にすることによって救われると考えることは、旧約聖書の教えではありませんでした。

月曜日(30日)「当然支払われるべきものか、恵みか」
 パウロは罪人の私たちが救われるのは、あくまでも神様の恵みによってであることを説明しています。わたしたちががんばって良い事をしたり、清く誠実な人間となる努力をする結果として救いは与えられるものではありません。もしそうなら、みな神様に認めてもらおうといろいろなことをするようになるでしょう。しかし、真実の救いは「神様からの、まったく身に余る、受けるに値しない賜物」なのです。このすばらしい賜物(神様からのプレゼント)は、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、私たちを含めて全ての人がいただくことができます。イエス・キリストは、全ての罪びとのために十字架で身代わりに死んでくださり、永遠の命をイエス・キリストを信じる全ての人にプレゼントしてくださったのです。ただ、神様の恵みによって救いが与えられているのです。

火曜日(31日)「約 束」
ローマ4章13節でパウロは「信仰」と「律法」のことをはっきりと言っています。神様はアブラハムとその子孫に神の国を継がせると約束なされました。その約束は、良い事をしたら果たしてあげようと神様はお考えになっておらず、信仰を持って約束を信じるときに果たそうとなされました。ガイドに「信仰は人を救い、律法は人を罪に定める」と書いてあるとおりです。しかし、ユダヤ人にとってはたやすく、「ああそうなんだ」と納得できるものではなかったようです。ずっと「律法」中心に考え、生きてきていたからです。わたしたちも、悪いことをすれば罰が当たり、よいことすれば救われるという教えが身に染み付いていますので、神様の約束を信じるのみで、本当に救われるの?と思いがちです。いつの時代でも、サタンがこの誤った考え方で人々を滅ぼそうとしてきたのです。

水曜日(1日)「律法と信仰」
 問1にある質問について考えてみましょう。人は自らの業によって自分自身を救うことができると考えることは、なぜ罪に身をさらすことになるかという質問です。キリスト教は、救われようとがんばることをしない宗教です。自分の努力や忍耐によって救いを手に入れようとしないのです。パウロは、ローマ3章で全ての人は神様の前に罪を犯して、救いを受けることができなくなっていることを告げています。たとえ、どんなにまじめに努力しても、人の努力や意思では罪の支配から解放されることはできないのです。表面的には信仰をもって、清く正しい行いの人生を送ることはできます。しかし、カインと同じで、自分では良い事を神様にしているつもりでも、自分の中にある罪はなくなっていないのです。いざとなると、カインがアベルを殺したように、自己中心の行き方に支配されていくのです。罪との問題は、人の力を超えた神の力と恵みによらなければ、決して解決ができません。そのことを認めて、神様の約束を素直に認めることが信仰です。

木曜日(2日)「律法と罪」
現代の多くの教会が主張している間違いについて、今日のガイドは説明をしています。キリストの死によって律法は廃止された。クリスチャンは福音によって救われているので、律法の支配は受けない。安息日を含め、律法にこだわるセブンスデーは間違っている。自分が病気であるとの自覚なしに、病院に治療に行く人がいないと同じように、罪の自覚があって初めて、救いの必要を感じるものです。ガイドに、「律法は、何が罪であるかを示し、福音はその罪の治療法(イエスの死と復活)を指し示します。」とあります。律法の役割は、今でも人々の罪を指摘して、キリストの救いの必要を求める働きをしています。パウロの時代は、律法を守ることによって救われると誤解し、現代は律法は必要ないとの誤解をしています。ローマ書の学びを通して、神様の救いの道を正しく知ることがわたしたちにも大切なことです。

まとめ
今週の暗唱聖句の中に、「信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」とあります。信仰による救いと律法の大切さをわたしたちが自分の中でしっかり理解する必要があります。パウロを通して教えられている、信仰による義は、宗教改革で再確認され、第三天使のメッセージとして私たちに示されている大切な教えだからです。アブラハムは、信仰的教理として、信仰による義を知っていたというよりは、生き方として神様のみ前に体得していたことでした。安息日を守り、十戒を大切にするということのすばらしさを私たちも実践の中で知っていく必要があります。神様の恵みによって救われ、罪に勝利する力を日々いただいている者として、感謝と喜びのうちに律法の実践者となりたいものです。神様の恵みの賜物は限りなき祝福を私たちにもたらしてくださっています。