第6課 安河内アキラ

2017年第4期「信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙」

       6課     アダムとイエス    11月11日

暗唱聖句 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」  ローマ5:1,2

今週の聖句  ローマ5章

今週の研究  アダムという1 人の人の堕落によって、有罪宣告、疎外、死がすべての人に振りかかり、一方イエスという1 人の人の勝利によって、全世界が神の前における新しい立場に置かれました。イエスへの信仰によって、彼らの罪の記録とその罪が受けるべき罰は免じられ、永遠に赦されるのです。

月曜日:愛の神が怒りを抱いておられるという考えに思い悩む人たちがいます。しかし、この怒りが存在するのは、まさに神の愛のゆえなのです。この世を愛される神が、どうして罪に対して怒りを抱かずにいられるでしょうか。もし神が私たちに無関心であるなら、地上で起こることを気にかけたりなさらないでしょう。世界を見回して、罪が神の被造物にどんなことをしてきたか、確かめてください。このような悪や荒廃に対して、どうして神は怒らずにいることがおできになるでしょうか。

水曜日:シナイ以前、一般的に人類には限られた啓示しか神から与えられていませんでした。しかし、人々は責任を負わされるだけのことは十分に知っていました。神は正しいお方であり、不当に誰をも罰したりなさいません。パウロがここで指摘しているように、シナイ以前の世界の人々は死にました。死はすべての人に伝わりました。人々は明示された命令に対して罪を犯したのではありませんが、それにもかかわらず、罪を犯したのです。人々には自然界における神の啓示が与えられており、彼らはそれに応答しなかったので有罪とみなされました。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質……は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」(ロマ1:20)。
ローマ5:20、21を読んでください。シナイで与えられた命令には道徳律が含まれていましたが、それは以前から存在していました。しかし聖書によれば、この律法が文字で書かれ、広く宣言されたのは、これが初めてでした。
イスラエルの人々は、自らを神の要求と比較してみて、自分たちが程遠いことに気づきました。言い換えれば、「罪」が増し加わったからです。イスラエルの人々は不意に自分たちの罪の深さを自覚したのです。そのような啓示の目的は、彼らが救い主を必要としていることを気づかせ、神によって無償で与えられる恵みを受け入れるように促すことでした。先に強調したように、旧約聖書の本当の信仰は、律法主義ではありませんでした。

木曜日:ここにある次のような対立概念に目を向けてください―「死」と「命」、「不従順」と「従順」、「有罪の判決」と「無罪の判決」、「罪」と「義」。イエスはまさに、アダムがしたあらゆることを取り消すために来られたのです。
ローマ5:15 ~17 に「賜物」という言葉が4 回登場するのも興味深い点です。4回もです。論点は単純で、義認は獲得するものではなく、賜物として与えられるものだと、パウロは強調しています。それ は、私たちが受けるに値しないものです。あらゆる贈り物と同様、私たちは手を伸ばしてそれを受け取らなければなりません。そしてこの場合、信仰によってその賜物を自分のものとして主張するのです。

 今週の学びは、キリストの十字架によって与えられる義がいかに広く深いものであるかを教えています。暗唱聖句の冒頭の部分で「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから・・・」とありま す。今週の学びでは、この十字架による救いについては完了していること、あとは私たちがそれを受け入れるか否かにかかっていることを念頭において学んでください。
 水曜日の引用文を読んでください。ここではモーセの十戒が与えられる以前と以後のことについて書かれています。十戒が与えられることによって、何が罪なのかがはっきりしたので、それだけ罪が増し加わりました。今まで知らずにやっていた間違いを、それが間違いと知ったら 罪意識にかられるのと同じです。律法は罪に気づかせて、救い主に向かわせるのが役割です。
 けれども知らなかったから罪がゆるされるというわけではありません。ポイントは「人々には自然界における神の啓示が与えられており、彼らはそれに応答しなかったので有罪とみなされました。」と水曜日の引用文にあります。律法の内容を知らなくても、神さまは人々に正しい道を様々な形で語りかけていたのです。これに関しては、今日においても聖書や十戒を知らない人についても同様です。
 同じように、わたしたちも救いを知り、救いを受け入れていても、そこから自ら漏れてしまうこと無いように、またそこから離れてしまっていることに気づくように、日ごと祈りとみ言葉から神さまの声に耳と傾けることが重要ではないでしょうか。