第8課 安河内アキラ

2017年第4期「信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙」

8課    ローマ7章の「わたし」とはだれか    11月25日

暗唱聖句  「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」 ローマ7:6

今週の聖句  ローマ7章

今週の研究  ローマ7章は、パウロの回心前の体験か、回心後の体験かという点について、聖書の研究者たちの意見は分かれています。しかしどのような立場を取ろうと、重要なのは、イエスの義が私たちを覆うということ、そして彼の義によって私たちは神の前に完全な者になるということであり、その神が、私たちを聖なる者と し、罪に対する勝利を与え、私たちを「御子の姿に似たものに(する)」(ロマ8:29)と約束しておられるのです。これらが、「永遠の福音」を「あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に」(黙14:6)伝えようとする際に、私たちが知り、体験すべき重要なことです。

月曜日:ローマ7:8~11を読んでください。神はユダヤ人に御自分を啓示し、道徳、民事、礼典、健康といった事柄における善悪を語られました。彼はまた、さまざまな律法違反に対する罰も説明なさいました。神の啓示された御旨を犯すことが、ここでは罪と定義されています。それゆえパウロは、「律法」によって事実を知らされなければ、それがむさぼりの罪であるかどうかわからなかったであろうと説明するのです。罪は、神の啓示された御旨を犯すことであり、啓示された御旨がわからない所では、罪に気づきません。その啓示された御旨が1人の人に知らされるとき、その人は、自分が罪人であり、有罪判決と死の下にいることを認識するようになります。パウロは、ここでの論法やこの箇所全体を通じて、律法を尊ぶユダヤ人がキリストを律法の成就とみなすようになるための橋を架けようとしているのです。律法は必要だったが、その機能は限られていたと、パウロは指摘します。律法は救いの必要を示すように意図されていたので、救いを得る手段となるように意図されていたのではありませんでした。

水曜日:残念なことに、キリストへの献身を日々新たにしていないために、結果として多くのクリスチャンが、どれほど認めたがらないとしても、罪に仕えています。多くのクリスチャンは、自分たちが実際には聖化の通常の経験をしているのであり、まだまだ道のりは遠いと自己弁護をします。それゆえ、彼らは気づいている罪をキリストのもとへ携えて行き、それに勝利させてくださいと求める代わりに、正しいことをするのは不可能だと主張していると彼らが考えるローマ7 章を盾に取るのです。確かにこの章は、人が罪に隷属しているなら善を行うことはできないと述べていますが、イエス・キリストによって勝利は可能なのです。

木曜日:ローマ7:24、25 を読んでください。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」という表現で輝かしい山場を迎えたあとに、なぜパウロは、彼が解放された魂の葛藤に再び言及するのだろうかと、ある人たちは不思議に思ってきました。この感謝の表現を挿入的な叫びと理解する人たちもいます。そのような叫びは、「だれが救ってくれるでしょうか」という嘆きの声に続いて自然に出てくるものだと、彼らは信じているのです。それが輝かしい解放に関する詳しい議論 (ロマ8 章)に先立つものであると、彼らは考えます。パウロはこれまでに述べたことを要約し、罪の力との葛藤をもう一度告白しているのです。
パウロの「わたし自身」という言葉は、「キリストを離れて、自分だけで」という意味だと言う人たちもいます。ローマ7:24、25 がいかに理解されようと、一つの点だけははっきりさせておくべきでしょう。私たちは、キリストなしに自分たちだけにされると、罪に対して無力だということです。キリストがともにおられるので、私たちは彼にあって新しい命にあずかります。この命にあるとき―絶えず自己があらわれるとしても―、求めるなら、勝利の約束は私たちのものとなります。誰もあなたの代わりに呼吸をしたり、咳をしたり、くしゃみをしたりできないように、誰もあなたの代わりにキリストに屈服することを選択することはできません。その選択ができるのは、あなただけです。イエスにあって私たちに約束されている勝利をあなた自身のために得る方法は、他にはありません。

 ローマ7章のパウロの悲痛な叫び「欲していない悪」を行ってしまう自らの弱さ、これを読んだ時に、パウロでさえこのように誘惑に負けてしまったり、気づかずに罪を犯してしまうのだったら、わたしなどが罪を犯し続けてしまっても仕方がないと絶望感に襲われたものでした。それだけ罪の力は大きく甘いものではありません。
 なんでこんな軽率なことをしてしまったのだろう、あんなことを言わなければ良かったなど、何度も後悔をして涙を流しても時間を巻き戻すことはできません。そして、また罪をくりかえしてしまう弱さが私たちにはあります。けれども25節では、この絶望の状態にある私たちの罪をあがなって救ってくださるキリストの十字架に感謝とパウロは教えているのです。その後に「心では神の律法に従っていますが、肉では罪の律法に仕えている」これがわたしたちの現実かもしれません。
 罪を犯かす時は、それに気づいていません。わかっていてやっていたら、これは別の問題です。しかし罪を犯したことに気づいた時に、私たちは悲しみそして失望するでしょう。悪魔も罪の弱さを責め立ててくるでしょう。そのような時だからこと天を見上げてください。あなたを救うために十字架にかかってくださったキリストの愛にすがってください。