第8課 聴覚しょうがい者用:武田 将弥

2017年第4期「信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙」

第8課      ローマ7章の「わたし」とはだれか    武田将弥  

1・『今週のテーマ』
ローマの信徒への手紙7章には、おそらく多くのクリスチャンが体験するであろう、内なる戦いの葛藤が描かれています。そこには「わたしは…」と何度も説明が入っていますが、この話は昔から聖書学者たちの間で多くの議論がされてきた部分でした。
それは「パウロが自分のことを書いているものなのか?もしそうだとしたら、この説明はパウロが回心する前のことなのか、それとも回心した後のことなのか?」などの点が話し合われたようです。しかし大事なのは、これを読んで自分を振り返った時に、ここに書かれている葛藤がクリスチャンとして、とても強く共感できるところにあります。
この説明が回心の前なのか、それとも後なのかは聖書学者たちの意見が分かれていますが、一番重要なポイントは、救い主であるイエス・キリストの恵みによってのみ、私たちは神の前に義とされて、聖なる者としていただけるという点です。どんな人間でも必ず罪を持っています。神様の力がなくては救われないのだということを忘れずに、日々イエス様に似た者として変えてくださるよう、祈りつつ歩んでいきましょう。

2・『律法に死ぬ(日)』『罪と律法(月)』
 ユダヤ人たちが長年に渡って続けてきた律法(礼拝形式)は、救い主イエス・キリストの出現によって大きく変わることになりました。もはや型ではなく本物が登場したからです。しかしユダヤ人たちは今まで生活の一部になっていた多くのものを捨てて、新たな生活と礼拝スタイルを柔軟に受け入れていくのに苦労したようです。パウロはこの問題に対応していたのですが、彼は「夫婦の結婚」を例に説明をしました。内容を簡単に要約すると、夫婦がお互いに生きている間は一緒ですが、もしも相手が死んでしまった場合は再婚が許されるのです。パウロはこの説明になぞらえて、ユダヤ人が強調していた律法的な生活・礼拝形式をまもることで救われるという、ずっと続いてきた古い考え方ではなく、救い主であるイエス様を自分の主人として受け入れ(再婚)て、神の恵みによって救われるのだということを教えようとしました。ところでキリストと結婚することで、神の掟(十戒など)はもう守らなくてもよくなったという事ではありません。神様を愛する信仰をいただくことによって、心から神の掟を喜びつつ、自主的に守れるように生まれ変わらせていただけるのです。
人間は律法を知らなければ、罪がどういうものなのかよく分かりません。それは自分の姿を映し出す鏡に似ているかもしれません。ちょうど自分の顔が汚れているかを知るのにどうしても必要になる物だからです。また律法は神様の品性を説明したものでもあるので、自分と見比べると不足ばかりを感じて暗くなってしまうかもしれません。しかし、だからこそ人間は、その完璧な存在である神様によってでしか救いを得ることは出来ず、救いを与えて下さる恵み深いイエス・キリストの必要を強く確信するのです。
 
3・『律法は聖なるもの(火)』『ローマ7章の「わたし」(水)』
 律法は神の聖なる属性を説明しているので正しく善いものです。しかし律法そのものには救う力がありません。救い主であるイエス・キリストだけが、罪の奴隷になっている者を開放し、自由にしてくださる力を持つのです。
律法を勉強して、自分がいかに無力で惨めな存在だと気付いた時、その人は自分自身にがっかりするかもしれません。しかしそこで神様の必要性に気付いてほしいのです。イエス・キリストと共にあって、罪に打ち勝つように助けてほしいと祈り求めて下さい。
罪人である間は律法を全うすることは出来ないので、善を行うことは出来ないかもしれません。しかしイエス・キリストによって勝利は可能なのです。『人間にはできないことも、神にはできる(ルカ18:27)』ことに希望を持ち、主に感謝しましょう。

4・『死から救われて(木)』
 ローマ7章では、クリスチャンは地上に生きる人間として、霊と肉、善と悪の法則が自分の内に流れており、たえず内で戦いが続いているという葛藤を、正直に描写しています。心では神様を信じて求める一方で、自分の内に潜む罪の性質によって、欲望に引っ張られる傾向ももちます。残念ながら信仰生活は綺麗事では片付きません。神様を信じてバプテスマを受けたらゴールではなく、そこから長い信仰の生活(戦い)が始まるのです。
クリスチャンとなった者は大なり小なり皆、正しくあろうとする理想の姿と、悪いと分かっていても、ついそちらに惹かれてしまう弱い自分の姿を発見し、理想と現実の差を知るのではないでしょうか。とにかく忘れてはならないポイントは、私たちは誰一人としてキリストなしでは、罪に対して完全に無力であるということです。
 
5・『さらなる研究(金)』
 ローマ7:25の「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」というこの聖句は、すべてを説明していて分かりやすいかもしれません。人は神様の律法と罪の法則の影響を両方受けており、義人でありながら同時に罪を犯しています。つまり自分の意思とは無関係に、両方の影響下にある複雑な存在なのです。ですから人は神様に仕えることを喜び、罪の影響にあって苦しんでいることに対して、あわれみを求めることが大切です。神様に愛されて義とされた人は、同時に罪人でもあるのですが、慈悲深い神様は罪人であっても愛して下さることを忘れてはいけません。そもそも義人というのは、キリストを信じて、主の愛がその人を包んでくださり、神様の身元に引き寄せていただけた、恵みを与えられた人のことをいいます。
我々はこの地上に生きている間は、罪の影響を受けた肉体と環境のなかで生活しなくてはなりません。ですから生きている限りはこの葛藤がいつまでもついて回ります。残念ながらこの問題から完全に解放されるのは、神の国と新しい体が与えられるキリストの再臨まで続くことになるでしょう。しかし自分は最後まで耐えられそうにないし、救われる資格もチャンスも無さそうだと悲しむ必要はありません。なぜならば神様は慈悲深い愛のお方だからです。確かに自分の力では何も出来ないかもしれませんが、神様の必要性を心から感じて悔い改めた者は救われるのです。難しく考える必要はありません。何より大事になるのは「素直に神様のことを信じる」ことです。たとえ自分の聖書理解が十分ではなかったとしても、イエスの母マリアが受胎告知の時に「主の言葉を受け入れ(信じ)ます、この身になりますように。」と応えたように、受け入れることが大事になります。私たちは神と自分の関係性と立場とを、日々確認していくことが大切なポイントとなります。