第9課 安河内アキラ

2017年第4期「信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙」

9課          罪に定められることはない        12月2日

暗唱聖句 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」 ローマ8:1

今週の聖句  ローマ8:1~17

今週の研究  ローマ8章は、7章に対するパウロの答えです。ローマ7章においてパウロは、苛立ち、失敗、罪に定められること(有罪宣告)について述べています。8章では、罪に定められることは姿を消し、イエス・キリストによる自由と勝利に置き換わっています。

日曜日:しかしそうは言うものの、その人がイエスに屈服すると、神に対するその人の立場がたちまち変わります。これまで律法違反者として罪に定められていたその人が、今や神の目に完全な者になる、あたかも罪を犯したことがない者のようになるのです。なぜなら、イエス・キリストの義がその人を完全に覆うからです。もはや罪に定められることがないのは、その人が完璧で、罪がなく、永遠の命に値するからではなく、イエスの完全な人生の記録がその人の記録に代わって有効になるからです。それゆえに、罪に定められることがありません。しかし、良い知らせはそこで終わらないのです。
ローマ8:2 を読んでください。「命をもたらす霊の法則」とは、人類救済のためのキリストの御計画をここでは意味します。それは、行き着くところが死である。
罪の法則として7 章で説明された「罪と死の法則」とは対照的です。キリストの法則は、命と自由をもたらすからです。

水曜日:これらの聖句の中で、パウロはローマ6:1~11で用いた比喩に立ち戻っています。「罪の体」、つまり罪に仕える体は、比喩的にバプテスマにおいて滅びます。「古い自分(は)キリストと共に十字架につけ られた」(ロマ6:6)のです。しかしバプテスマと同様、葬りだけでなく、復活もあります。ですから、バプテスマを受けた人は、新しい命に生きるために復活します。これは、私たち自身の古い自己を日々、一瞬一瞬殺すこと(私たちがなすべき選択)を意味するのです。神は人間の自由を侵害したりなさいません。 罪の古い人が滅んだあとでさえ、罪を犯すことはありえます。パウロはコロサイの信徒に、「だから、地上的なもの……を捨て去りなさい」(コロ3:5)と書きました。
それゆえ、回心のあとにも、依然として罪との葛藤があるでしょう。違いは、聖霊を内に宿している人には、勝利するための神の力があるという点です。さらに、その人は罪という奴隷の主人から奇跡的に救われたので、再び罪に仕える義務がありません。

木曜日:私たちが受け入れられたことを裏づけるのは、聖霊の内的あかしです。単に感覚だけで判断することは安全ではありませんが、御言葉の光に従ってきた人たちは、理解できる範囲で、自分たちが神の子として受け入れられたことを裏づける内的な確証の声を聞くでしょう。
確かに、ローマ8:17 は、私たちが相続人であると述べています。つまり、私たちは神の家族の一員であり、相続人、子どもとして、父なる神からすばらしい相続財産を受け取るのです。私たちはそれを獲得するのではありません。それは、神における私たちの新しい立場、神の恵みによって認められた立場のおかげで与えられるのであり、その立場は、私たちに代わってイエスが死んでくださったことによって提供されたものです。

先週の学び、ローマ7章の最後はパウロの悲痛な叫びが、キリストによる救いの約束で終わっています。そして今週の暗唱聖句、ローマ8章1節につながって行きます。何回も書いていますが、神様はまず私たちのために、キリストを通して救いの道を用意してくださっています。そしてその条件なども聖書を通して語りかけてくださっているのです。次は私たちがしなければなりません。その招きに応答しなければならないのです。日曜日の引用文をお読みください。私たちが応答するときに、たちまち変わると書かれています。
 しかし問題はここからです。このように約束されていますが、神様が直接「あなたの罪は赦された」と語りかけてくださるわけではありません。救われたあかしはあるのでしょうか。木曜日の引用文の前半をご覧ください。「私たちが受け入れられたことを裏づけるのは、聖霊の内的あかしです。」とあります。その後に、「感覚で判断するのは安全ではありませんが、」と注釈がついています。その通りだと思いますが、神様は必ず何らかのかたちであなたを救った、守っていると信じることができる何かを語りかけてくださいます。これは間違いありません。その声や確信を受けて、私たちはまた一歩前進をするのです。