第12課 山本 義子

2017年第4期「信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙」

第12課        善をもって悪に勝つ           

 
私たちは土のちりから造られた土の器にすぎない小さな存在ですが、この器に何を入れたら本当の意味で生かされるのでしょうか?それは信仰です。信仰を入れる時に初めて、この土の器は生かされます。パウロは11章まで聖化をも含めた信仰による義の教えを説明してきた上で、ここで具体的実践的にどうあったらよいのかを取り扱っています。

1.クリスチャンの自己犠牲 (ローマ12:1,2)
 この勧めの大切な部分は「神のあわれみによって」という箇所です。このような勧め(12:1)が必要であったのは、ギリシャ哲学においては体というものが軽視されていたということもありますが、当時社会には道徳的に堕落していた状況が実際にあったことをパウロは念頭においていたと思われます。“体”は、単に肉体というよりも人間の存在全て、体、心(精神)、霊性を含めたものを指しているように思われます。神は私たちが自分を滅ぼしてしまうような習慣を捨て、自分自身の全てを神さまにささげることを喜ばれます。神さまの目的である人の完全な回復は、トータル的に清められ強くなることを含み、最も良い状態で神さまと人々に仕える奉仕に生き生きと力に満ちて生きることです。
「霊的な礼拝」とは神に受け入れられる心からの礼拝であり、キリストのなさって下さった贖いのみ業への応答であり、それは私たちの生活を通して神の栄光を現わすことです。

2.クリスチャンの人間関係  (ローマ12:9~21)
 私たちの最高の幸福を願われる神は、奉仕に結びつけるくびきを与えようとされています。心にしるされる愛の律法は、わたしたちを神のみ心に結びつけます。神と人を心から愛し仕えるという働きを通して私たちの霊的筋肉が強められ、まもなく到来する御国へ行く備えが出来ます。キリストは苦難を受けながらも、神と罪深い私たちに対する測り知れない愛を十字架上で現わされました。私たちの模範であるキリストの学校でキリストの柔和と謙遜を学び、訓練されて神と共に歩んでいきましょう。

3.クリスチャンの唯一の借りである愛  (ローマ13:8~10)
 アブラハムは、暴力と圧迫が満ちていた国内で起こった事件からロトを救い出しました。結果は神のもとにあったアブラハムの大勝利でした。彼は利益を目的に戦ったのではなかったので、人々の不幸に乗じることはしないで、ただ同盟国の人々が受ける分を求めただけでした。彼の行動はレビ記19:18のみ言葉そのものでした。ユダヤの律法の儀式や礼典の中に象徴された救い主は、パウロが宣べ伝えていた福音の中身と全く同じでした。キリストが来臨されることにより、神の姿を囲んでいた雲のようなものは取り除かれました。シナイ山で律法を宣言され、モーセに礼典律の戒めを与えられた方は、山上で説教された方と同じでした。神さまが私たちに求められる統治の原則は同じです。

4.真近い再臨への備え (ローマ13:11~14)
 今天の至聖所で大祭司としての働きをなしておられるキリストに心の目を向けて、この方と日毎に結ばれ続けていく必要があります。私たちの罪と汚れを清めるために開かれたいのちの泉、それは神のみ座から流れ出ているキリストの血(いのち)です。キリストはご自身のみ傷のある両手を広げて私たちのためにとりなして下さっています。罪を取り除いて下さるという天の働きに同意し、私たちが心からの悔い改めをし罪を告白する時、神は聖霊の力により冷たく固い石ではなく、やわらかい肉の心に律法をおき、しるして下さり、その結果として罪を犯さないように少しずつ変えられていきます。日々み言葉によって生きるために自己をささげる時に、キリストのいのちが現わされていきます。