第4課 松本 裕喜

2017年第4期「信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙」

第4課       信仰によって義とされる
     
 今週はローマ3:19~28の学びです。第3課では、すべての人は罪人であることを学びました。それは文字通り例外なく「すべての人」が罪人であると聖書にはっきりと書いてあります。ローマ3:20によれば、律法を守ることによっては誰一人義とされない(正しい者であると認められない、救われない)とあります。律法を守るということが、ある項目だけは守っても別の項目は破っているという状態ですと、 それは罪とみなされます。律法をすべてきっちり守れる人は誰もいませんので、私たちは例外なくすべての人が罪人であると言えます。そして、律法と私たち自身を照らし合わせてみると、自分は罪人だという罪の自覚しか生まれません。

「神の義」
 「義」とは「正しい」という意味ですが、聖書では単純に正しいことを指していません。私たちには自分を正しいとする自分なりの「義」がありますが、何が基準になっているかが問題です。自分で自分を見れば自分は正しいと思うでしょうが、絶対的な基準は神様ですから、神様の正しさから見れば私たちは正しい者ではないのです。ですから、「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)とあるように、私たちは自分の罪の責任を取って死ななければ(滅びなければ)なりません。
 しかしローマ3:21-22によると、アダムとエバが罪を犯して以来ずっと約束されてきた神の義が示されて、それはイエス・キリストを信じる者すべてに差別なく与えられるというのです。罪の代償を神が用意してくださり、私たちの罪の責任を神が負われるというのは驚くべき事です。 私たちがどんな罪の塊であっても、イエス・キリストを信じる者を神様の標準にふさわしい義なるものとしてくださるのです。

義と宣言する
 すべての人は罪人ですから、すべての人が神の恵みを必要としています。「義とされる」とは、「義と宣言する」という意味です。しかしそれは、罪や負債を赦免する単なる赦し以上のものです。逆に、それには、悔い改めた罪人に正しい立場を肯定的に宣言する意味が含まれています。・・・放蕩息子の父親は、息子を赦すのみならず、告白を聞くと直ちに家族として迎え入れるのです」(副読本36頁)。義と認められるということは、罪人という立場から正しい人、神の子へと立場が変わることを意味します。

信仰によって
 「ある子供が親に隠れて、駄菓子屋でお菓子を万引きしていました。しばらくして、お店の人がそれに気づきました。お金の計算が合わないために用心していたところ、この子が万引きするところを見つけたのです。店主は万引きした子供を捕まえ、警察に引き渡そうとしました。そして、子供の親を呼びました。母親は子供を警察に引き渡そうとする店主に、今回だけは見逃して欲しいと必死に頼み込みます。そして、店主に子供が万引きしたお菓子代の10倍を支払い、和解することができました。こうして、この子供は許され、警察に行く必要もなくなりました。ところが、この子供はその後も店主に捕まらないように逃げてばかりいるのです。母親が償いをしたという事実を信じようとしないのです。すでに代価は支払われました。その事実を信じて自由になるか、それとも拒否して恐怖の中で生きるか、どちらかひとつです。」(神を信じるってどういうこと?120−121頁)