第6課 張田 佐喜夫

2017年第4期「信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙」

第6課       アダムとイエス
     
はじめに
 一人の人アダムによってもたらされた全人類への悪影響は測り知れないものがあります。その結果、救いのために、神が用意された御計画には、御子イエス・キリストの贖いの尊い命(血)が必要でした。ただ一つだけ、「第二のアダム」イエスに対する信仰だけが、神から義と認められるのです。

日曜日:信仰によって義とされる
 パウロは御子イエス・キリストによって、神から私達に対する評価が変わった事を、喜びのうちに示しています。「信仰によって義とされ」神との正しい関係に入れられただけでなく、「義とされたのだから」我々の霊的な状態も変わっているはずだと主張します。信仰によって義とされた者の歩みには賜物として、平和、神に近づく、喜び(誇り)、希望が与えられています。パウロは当時のローマのクリスチャンが迫害(苦難)の為に信仰を持ち続ける事が困難であった為、その状況の中で、義とされた者の品性として苦難→忍耐→練達→希望が増し加わり、一層神に近づく者になるとも励ましました。

月曜日:まだ罪人であったとき
 キリストの血は私達を神の前で義とする力が有ります。神は怒りの神といった誤った理解から救われます。神の怒りは私達を愛して止まないが故です。私達がまだ敵であった時にも生命にいたる救いが与えられていることに気付く時、神との和解が与えられ、新しい人としての歩みは、神を誇り喜びながら生きるのです。

火曜日:罪による死
 自分は罪人であるという自覚に乏しいのが、人間の姿です。罪がどの様に自分に影響を与えているのかという事をしっかり理解しないと、イエス・キリストの十字架の本当の意味はわからないのです。自分が罪人であると認識した時、救い主の必要を認めます。アダムによってもたらされた死は惨めなものです。しかし、「福音の最も素晴らしい側面の一つは、死が命によって飲み込まれてしまったということです。」p42

水曜日:アダムからモーセまで
 ローマ5:13には、「律法がなければ、罪は罪と認められないわけです」とあります。モーセが神から律法を与えられる前には、イスラエルの民たちには罪がなかったのでしょうか?いいえ!罪は存在していました。アダムからモーセまでの人たちも死んだからです。死は全ての人々に及び、神が創られた自然界と調和していない自分たちに対して、罪の意識は有りました。しかし、律法が与えられたのは、「罪が増し加わったので」という事です。p43
パウロは、「罪の増し加わるところ、恵みはなおいっそう満ちあふれ」る、と言います。

木曜日:「第二のアダム」イエス
 パウロはアダムの堕罪を基に、アダムが一人の人で、神への不従順によって違反を犯し、罪と死が人類の中に入ったように、「一人の人」であるイエス・キリスト「第二のアダム」の従順と義の行為によって、罪人が神に義と見なされ、神のいのちが支配するようになったと示しています。素晴らしい真理です。
 神に私達の全ての罪が赦される根拠は、イエス・キリストの十字架の贖罪の死、これしか無いのです。
 キリストの十字架の贖罪の死以外の「命」や「従順」や「無罪の判決」や「義」をもって、神の前で自らを正当化する行為は、不正行為であり、イエスの死を冒涜する行為です。
「義認は獲得するものではなく、賜物として与えられるものだ。」p44 とパウロの強調どおりです。ただ、この賜物も受け取らなければ、全く意味のないものとなります。無価値な者への尊い贈り物、信仰によって自分のものとしたいものです。