第1課 安河内アキラ

2018年第1期「スチュワードシップ(管理者の務め)ー心の動機」

1課          物質主義の影響       1月6日

暗唱聖句
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」ローマ12:2
                                           
今週の聖句  Ⅰヨハネ2:16、17、ルカ14:26~33、12:15~21、申命記8:10~14、Ⅰテモテ6:10、ヨハネ15:5、ガラテヤ2:20

今週の研究  物質主義は、クリスチャンを攻撃するのに最適なサタンの武器の一つです。詰まるところ、金銭や、金銭が現世において私たちにもたらしうるのを嫌う人がいるでしょうか。その最大の成果は即座に得られる喜びですが、最終的に金銭が私たちの最も切実な必要を満たすことはありません。

序言: 管理者の務めは、イエスに従うとはどういうことかを日々実際的に示すこと、神に対する私たちの愛の現れであり、私たちがキリストによって与えられた真理を実践する方法です。私たちが管理人であるのは、神が最初に私たちを愛してくださったからです。従って、私たちが管理人の生活を送ることには、私たちの態度、回心、献身、自己鍛錬など、様々なものが含まれます。わたしたちは、あらゆる言動においてイエスとつながることで私心のない生活を送り、忠実で信頼できる神の僕にならねばなりません。

日曜日: 金銭はこの世の神となり、物質主義はその宗教です。物質主義は、究極の安全ではなく、一時的な安心を提供する高度で狡猾なシステムなのです。物質主義は、ここに定義するように、富や財産に対する欲望が霊的な現実よりも重要で貴重になることです。財産には価値があるかもしれませんが、私たちはその価値に所存されるべきではありません。「金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない」(伝道5:10)それが、この世の物を切望することにおける問題です。私たちはいくら手に入れても、決して満足しません。私たちは、私たちを決して満足させることのない者をますます求めて、しゃにむに頑張ります。わなとは、まさにこのことでしょう。

水曜日: ルシファーの堕落に関するこれらの聖句から、最初の罪が自己愛という罪であったことを、私たちはいろいろな意味で学ばねばなりません。ある辞書 は自己愛を、「自己に対する過度な陶酔、うぬぼれ」と定義しています。堕落した人間に関して、これらの特徴よりもはっきりした自己欺瞞の指標は何でしょうか。
 しかしこれらの特徴は、人が思う以上によく見かけられます。デブカドネツァルは傲慢にも、実際以上に自分は偉大だ、と考えました(ダニ4:27)。ファリサイ派の人々もこのような魅惑的な空想を信じるようになりました(ルカ18:11、12参照)。私たちが注意していないと、 富と同様にごまかしをもたらすことがあります。

木曜日: 物質主義は、一種の自己意識の混乱です。これは、私たちの多くにとって、私たちの独自性が財産と融合することを意味します。私たちの財産が私たちの神になります(マタ6:19~21)。ある人が言ったように、「私は、私のものがなければ価値がない」のです。私たちは自分自身を地上の所有物によってしか確認できないというのは、なんと悲しいことでしょう。とりわけ、クリスチャンと自称する者にとって、なんと浅はかで、はかなく、根本的にむなしい生き方でしょう。私たちは神と一体になるのですか、それとも財産と一体になるのですか。最終的に、いずれか一方です。

 今期は、わたしたちが「神さまからの賜物の管理者」ということについて学びます。クリスチャンとそうでない方々の大きなちがいは、ここではないでしょうか。それは、クリスチャンは命も能力なども、神さまから与えていただいたもので、それらすべてを用いて、多くのみなさまの幸せのために働くように召されていることを理解しているからです。「大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。 もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。 」(Ⅱテモテ2:20,21) この聖句での器はわたしたちですが、その大きさや材質が問題なのではなく、大切なのはそこに何を入れていれるか、そして決めるのはわたしたちなのです。
 もうひとつ、「しかし、『ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある』と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう 」(ヤコブ2:18)とあります。ほんとうに信じていれば、行いがともないます。今期の学びの大切なのは、この部分ではないでしょう。
 わたしたちは自分だけが救われるために神さまを出会ったのではありません。わたしたちを通して多くの方々が神さまを信じるようになるためなのです。わたしたちは笑顔の輪を広げるために働くように神さまから召されているのです。