第10課 安河内アキラ

2018年第1期「スチュワードシップ(管理者の務め)ー心の動機」

第10課         管理者の務めと役割         3月10日

暗唱聖句
「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」テサロニケⅠ 4:7
                                      
今週の聖句  コロサイ1:16~18、ヘブライ4:14~16、Ⅲヨハネ3、創世記6:13~18、黙示録14:6~12、Ⅰペトロ1:15、16

今週の研究  クリスチャン管理者であるとはどういうことなのか、その核となる信条は何でしょうか。私たちは今週、戦車の車輪という興味深い比喩によって、クリスチャン生活における管理の務めの役割についてさらに考えます。

日曜日:車軸が車輪の中心であり、戦車の重量を支えているように、キリストは管理者の生活の中心です。しっかりした車軸が車輪を回転させるように、イエスもまた私たちのクリスチャン生活における、固定された中心、安定した中心なのです(ヘブ13:8)。イエスの影響力が、私たちの考えること、することすべてに及ばねばなりません。管理の務めのあらゆる側面は、キリストの周りを回り、キリストの内に中心を見いだすのです。
「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハ15:5)。管理の務めの中心にあるのは空洞ではなく、私たちの品性を形成するために、今も、そして永遠にわたって働いておられる生けるキリストの現実なのです 。

火曜日:管理の務めという役割は、教理上の真理をイエスの内にあるとおりに生きること、しかも私たちの生活の質に良い影響を及ぼす形でそうすることです。
「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェ4:21~24)。
私たちはこの聖句の中に、真理を知るとはどういうことかだけでなく、真理を生きるとはどういうことかを見いだします。管理者であるというのは、どれほど教理が正しいとしても、単に教理を信じるだけのことではありません。管理者であるというのは、私たちの生活や他者との交わりの中で、それらの真理を生きることを意味するのです。

金曜日:時折、戦車の車輪の鉄の帯は、付け直す必要がありました。道路と激しくぶつかることで金属が伸びてしまうからです。この付け直しのためには、鉄の帯を激しくハンマーでたたく必要がありました。
この鉄の帯の付け直しは、実際の聖化としての管理の務めを象徴しています。それは、生活の大小さまざまな局面に対処する際に、たとえその過程がつらく苦しくとも、キリストの心を持つことです。例えば、その過程が、私たちのお金の使い方、家族関係、雇用に関することであれ、すべてはキリストの御心にかなっていなければなりません。私たちがみな痛感しているように、時として、この教訓を学ぶことができるのは、何らかの苦境を通してだけなのです。

 現代社会において、金銭が無ければ生きて行くことはできません。今週の学びを通して、神さまからの恵みの管理者として何をすべきか考えることは、まさにいかに生きるかを問いかけられているのです。
信仰生活は、十字架のようなものだと聞いたことがあります。神さまとわたしたちの縦の関係、そしてまわりの人との横の関係、どちらも大切です。同じように神さまに献げること、それはわたしたちが神さまに信頼をして与えていただいた中からお返しするものですが、同時にその与えていただいた中で、だれの世話にもならずに生きなければならないのです。(テサロニケ第一4:11参照)それぞれが、神さまとの関係において実際に手元にある金銭を、献げたり、用いたりしなければならないのです。
 神さまを知らない多くの人は、それを自分が生きるため、楽しむためだけに用いるでしょう。わたしたちは与えらえた金銭を自由に用いるように託されています。けれどもすべてものが益にはならないのです。(ペテロ第一2:16、コリント第一10:23参照)今週の暗唱聖句にあるように、聖なる生活をするために、何を選んで行くのか、これが管理者として問われているのではないでしょうか。