第3課 安河内アキラ

2018年第2期「終末時代への備えーイエスに会う準備をする」

第3課       イエスとヨハネの黙示録      4月21日

暗唱聖句
「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」黙示録3:21
                                           
今週の聖句  Ⅰコリ10:1~ 11、黙示録12:1~ 17、19:11~ 15、エフェソ1:20、黙示録11:19、1:10 ~ 18

今週の研究
黙示録は、イエスがどのようなお方であり、御自分の民のために何を成し遂げ、時の終わりに私たちのために何をなしてくださるかということに関する書、つまりイエスに関する書なのです。必然的に、終末の諸事件に焦点を合わせるときはいつでも、ヨハネの黙示録がそうしているように、イエスを常に中心に置く必要があります。今週の研究では、ヨハネの黙示録の中のイエスに目を向けます。

日曜日:Ⅰコリント10:1~11を読んでください。上記の原則が見られます。先週の研究で触れたように、ダニエル書のいくつかの物語(ダニ3:6、15、27、6:6~9、21、22)は、地域が限定された歴史的事件であったものの、幾分、黙示録に描かれた終末時代の事件を反映しています。私たちはこれらの物語を研究することによって、少なくともより大きな規模で、神の民が最後に遭遇するであろう事柄のいくつかを垣間見、それに対する洞察を得ることができるのです。しかし、おそらく最も重要な点は、地上での私たちの目の前の状況にかかわらず、私たちが最終的な救いを確信していることでしょう。黙示録がほかにどのようなことを教えていようと、それは忠実な者たちに勝利 を保証しています。

水曜日:黙示録におけるあらゆることは、構造から内容に至るまで、一つの目的を持っています。それはイエス・キリストをあらわすことです。
黙示録1:5では、キリストが贖あがない主であるとはっきり述べられています。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に」という言葉は、十字架におけるキリストの贖いの死を指し示しています。彼は私たちを義とするだけでなく、聖なる者にもしてくださったのです(Ⅰコリ6:11)。このような聖句の中に、私たちは救いの確証を見いだすことができます。なぜならそれは、イエスが私たちの罪を洗い流す唯一のお方であることを示しているからです。私たちはそれを自分の力では決してできません。

金曜日:私たちが今週見た聖句は、黙示録の初めのほうのものであれ、終わりのほうのものであれ、この書がどれほどイエスに関するものであるかを示しています。歴史的事件に関する旧約聖書の言及でさえ、それらをみな用いて、ヨハネの黙示録は主イエスについてさらに教えています。黙示録の中で、イエスに関する聖句をもっと見つけようと思うなら、黙示録3:14、5:5、6、7:14、19:11~16も参照してください。このような聖句をまとめるとき、私たちはイエスをはっきり知り、彼の弟子であると自称する自分たちとって、彼がどのような存在であるかがわかります。
                                           

今週は黙示録に書かれているイエスキリストについて学びます。わたしたちは黙示録は預言の書として学びます。けれどもヨハネは「神の言と、イエスのあかし、自分が見たすべてのことのあかし」を書いたと黙示録の冒頭に書いています。(黙1:2参照)預言は、イエス様が神の子として、すべてに勝利されることをあかししています。黙示録に限らず、聖書はイエスのあかしなのです。イエス様は神の子であり救い主であることを、すべての人類が信じるためのものなのです。
 日曜日の引用文でコリント第一10:1~11を読むようにあります。ここには旧約聖書において神さまに従わず、裁きを受けたことが書かれています。そしてこれはわたしたちへの警告であるとも書かれているのです。神さまは信じるすべての人を救ってくださいます。けれども信じない人、背を向けている人をお救いになることができません。
 黙示録では、最後の裁きについても預言されています。そこにはすべての善と悪との戦いに勝利されるキリストが書かれています。その神さまを信じてすがるか、それとも拒むのか、それはあなたが決めなければならないことなのです。