第5課 安河内アキラ

2018年第2期「終末時代への備えーイエスに会う準備をする」

第5課        天の聖所におけるキリスト       5月5日

暗唱聖句
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき」フィリピ2:9,10
                                           
今週の聖句  ローマ8:3、ヨハネ1:29、黙示録5:12、ヘブライ7:1~ 28、ヘブライ9:11~ 15、レビ記16:13、ヘブライ9:20 ~ 23

今週の研究
私たちは今週、天の聖所におけるキリストの働きを研究します。キリストの執り成しの働きは、御自分の民を終末に備えさせるために不可欠です。
 天の聖所において、キリストは私たちのために何をしておられるのでしょうか。それを理解することは、とりわけ終わりの時において、なぜ重要なのでしょうか。

日曜日:神は、肉において罪を罪として処断するために、贖罪(しょくざい)の供え物となるキリストを送られました。これは、どういう意味でしょうか。キリストは不死の存在として、死ぬことがおできになりませんでした。それゆえに主は、私たちの身代わりとして死ぬことができるように人間となり、死ぬべき性質をその身に帯びられました。
 実際にイエスは神であられたにもかかわらず、「人間と同じ者になられ……へりくだって、……十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2:7、8)。イエスが十字架で死んだとき、キリストの神聖は死にませんでしたが、それは神にしかわからないことです。人間の理解を超えた何らかの方法で、イエスの神性は母の胎内での9か月の間も、墓の中での数日の間も休止状態でしたし、イエスは地上における生涯や働きの中で、御自分の人性を支援するために決して神性をお用いになりませんでした。
 ルカ9:22はキリストの死が計画的なものであったことを教えています。キリストは死ぬためにお生まれになりました。あざけられ、むち打たれ、殴られ、痛ましくも十字架にかけられることをまったく考えない時は、一瞬たりともなかったでしょう。これは比類なき愛、これまでに目撃されたことのない、十分に理解されえない愛です。

水曜日:確かに、私たちがイエスを受け入れたとき、私たちの罪は赦され、私たちは神の前に、赦され、清められて立ちました。しかし、私たちがクリスチャンになったあとでさえ、すばらしい勝利の約束にもかかわらず、依然として時折罪を犯すという事実は変わりません。そのような場合には、イエスが天の大祭司として執り成してくださいます。イエスは、悔いている罪人の代理人を務め、(私たちには功績がないので)私たちの功績を訴えるのではなく、私たちのために彼自身の功績を神に訴えてくださるのです。「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」 (ヘブ7:25)。

木曜日:学者たちは、天の聖所自体が「清められねばならない」という言葉に驚いてきました。しかし、ひとたびこれが贖罪日について述べているのだと理解されれば、問題は解消します。ヘブライ9:23は、天の聖所におけるキリストの働きが、イスラエルの聖所で年に一度の贖罪日に大祭司によって行われたことの真の表現であることを示しているのです。地上の聖所を聖める地上の祭司の奉仕は、キリストがいつの日か天の聖所で行われる働きを予示していました。先の聖句は、この天の聖所の清めがキリストの昇天後すぐになされるとは述べていません。私たちはダニエル書の研究から、この奉仕の段階が1844年に始まったと考えることができます。それゆえに私たちは、終わりの時に直面しているクリスチャンとして、自分たちが存在する時代の厳粛さを理解すべきですが、キリストが過去において私たちのために成し遂げてくださったことと、現在、天の聖所の至聖所で行ってくださっていることへの確信の内に生きる必要もあります。
                                           

今週は、天の聖所について学びます。月曜日の引用文で、なぜキリストが人性を取られたのかについて書かれています。神さまのままでは死ぬことができないからでした。それだけ危険なことをしてまでわたしたちの救いのために人間となってくださったのでした。
水曜日の引用文には、「私たちがクリスチャンになったあとでさえ、すばらしい勝利の約束にもかかわらず、依然として時折罪を犯すという事実は変わりません。」という現実がしっかりと書かれていました。聖書は神さまが最後に罪に勝利されると書かれています。また苦しみは必ずやってくるが、神さまがともにいてくださるという約束が書かれています。けれどもそれを見失ったり、また高慢の誘惑に負けてまちがいを犯します。そのようなわたしを赦してくださる神さまの愛が伝わってきますね。
 木曜日には天の聖所における罪の清めについて書かれています。このことについて何も知らずにいてほしくはありませんが、神さまが天においてなさっておられること なので、わたしたちは信じる以外にはできませんね。その神さまが最善の方法として天の聖所でわたしたちの罪をあがなってくださっている、そのことに信頼することが最も大切なことではないでしょうか。