第6課 安河内アキラ

2018年第2期「終末時代への備えーイエスに会う準備をする」

第6課          誰が律法を「変更」したか         5月12日

暗唱聖句
「彼はいと高き方に敵対して語り/いと高き方の聖者らを悩ます。彼は時と法を変えようとたくらむ。聖者らは彼の手に渡され/一時期、二時期、半時期がたつ」ダニエル7:25
                                           
今週の聖句   ローマ8:1、7:15 ~ 25、7:1~ 14、ヨハネ20:19 ~ 23、使徒言行録20:6、7、ダニエル7:23 ~ 25、黙示録13:1~ 17

今週の研究
私たちは今週、神の律法、とりわけ安息日に目を向け、その律法の意図的変更にまつわる問題と、終末が間もなく訪れる私たちにとってそれが意味することに触れます。

月曜日:律法と罪の関係について、律法によっては救われえないことに関して、ローマ7:1~14を読んでください。パウロがここで教えていることから、二つの重要な点が出てきます。第一にパウロは、律法が問題なのではない、と指摘しています。律法は「聖なるものであり、……正しく、そして善いものなのです」(ロマ7:12)。問題は罪であって、それが死をもたらします。第二の点は、私たちを罪や死から救う力が律法にはないということです。律法は罪や死という問題を指摘します。それどころか、律法は罪や死という問題をさらに一層明らかにしますが、その問題を解決するために何も提供しません。
 律法についてだけでなく、なぜ律法が依然として必要なのかということについて、ローマ7:13を注意深く読んでください。死をもたらすのは律法ではありません。罪です。律法は、罪がいかに致命的であるかを示すものにすぎません。律法は善いものであり、それゆえ罪を指摘します。律法には罪に対する答えがありません。答えを持っているのは福音だけです。

木曜日:歴史の中で詳細ははっきりしませんが、私たちは、法王制ローマの下で第七日安息日が日曜順守の伝統に、つまり宗教改革が存続させ、21世紀に入っても続いているほど確実に定着している伝統に、置き換えられたことを知っています。今日、ほとんどのプロテスタントは、第七日に関する聖書の命令に従うよりも、依然として週の初めの日を守っています。
 黙示録13:1~17を読み、ダニエル7:1~8、21、24、25と比較してください。私たちが終末の諸事件を理解するうえで助けとなる比喩が、これらの聖句の中で用いられています。ヨハネの黙示録は、ローマの後期(法王制の段階)に関する比喩を含むダニエル書の比喩をそのまま用いることで、黙示録に登場する権力者たちの命令に従って「礼拝」することを拒む人たちに降りかかる終末時代の迫害を指摘しています。

金曜日:私たちが主を礼拝するのは、彼が「天と地」の創造主であられ、第七日が彼の創造者たることの基本的しるし、創造週にさかのぼるしるしだからです(創2:1~3)。神の権威に対する攻撃において、サタンがそのような第一にして基本的な権威のしるし(第七日安息日)を狙ねらうのも、不思議ではありません。
 神は終わりの時に、神への忠誠を決して曲げない人たちを地上に持っておられることでしょう。その忠誠とは、神の戒め(創造主、私たちの礼拝に値する唯一のお方として具体的に主を指し示す唯一の戒めを含むすべての戒め)に従うことで明らかにされる忠誠です。

今週の学びにおいて、神さまが礼拝する時として聖なる日はいつなのか、冷静に書かれています。まずほんとうにキリストが安息日を日曜日に変更されたのだったら、弟子たちはすぐに従っているでしょう。そしてもっとはっきりと聖書に記述されているでしょう。日曜日を遵守する方々が根拠としている聖句には、日曜日に変更とは書かれていません。
 また万物の創造主である神さまを礼拝するのだったら、創造の記念日に礼拝をすることがもっともふさわしいでしょう。黙示録14章の三天使の使命の最初のメッセージは、まさに創造主を礼拝するようにと述べているのです。
 わたしたちは「安息日がいつか?」という問題を論じる時に、日曜日遵守者を見ながら、どちらが正しいかについて考えてしまいます。けれどもどちらが正しいかよりももっと大切なのは、わたしたちが心から神さまを礼拝しているかではないでしょうか。横を向くのではなく、天を向いて礼拝をしていなければ、いくら安息日を守っても神さまはお喜びにはなられません。