第11課 安河内アキラ

2018年第3期「使徒言行録ー福音の勝利」

第11課             エルサレムでの逮捕            9月15日

暗唱聖句
「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」使徒言行録23:11
                                           
今週の聖句   使徒言行録21章、ローマ2:28、29、ガラテヤ5:6、使徒言行録22章、使徒言行録23:1~30、マタイ22:23~32
                                           
今週の研究
 彼には同胞のユダヤ人に対する純粋な愛がありましたが(ロマ9:1~5)、他方で、彼は教会の一致を望んでいました(ガラ3:28、5:6)。ユダヤ人も異邦人も、律法の行いによってではなく(ロマ3:28~30)、信仰によって等しく救われたのですから、律法の儀礼的要求に基づく両者の間のいかなる社会的疎外も、福音の受容的性質に反していました(エフェ2:11~22)。人生と宣教の新しい段階に入っていくパウロを追ってみましょう。

日曜日:使徒言行録21:18~22で、ヤコブとエルサレムの長老たちは、モーセの律法に熱心な地元のユダヤ教信徒の間でのパウロの評判に懸念を表明しています。パウロが外国に住むユダヤ人改宗者に、「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」(使徒21:21)と言って、モーセから離れるように教えていると知らされていたからです。
 言うまでもなく、これはまったく事実ではありませんでした。パウロが教えていたのは、ユダヤ人も異邦人も等しくイエスへの信仰によって救われるのだから、救いに関して、割礼を受けているか否かは何の意味もない、ということでした(ロマ2:28、29、ガラ5:6、コロ3:11)。これはユダヤ人に、律法とその要求を無視しなさい、とはっきり促すこととは違います。言うまでもなく、服従それ自身は、律法主義の同義語ではありません。しかし、同義であるかのように、意図的にねじ曲げられる可能性はあります。

水曜日:パウロの言葉(使徒23:6)は、最高法院をかき乱すための賢い戦術以上のものでした。復活されたイエスとのダマスコ途上での出会いが、パウロの回心と使徒としての働きの土台を成していたので、復活への信仰は、彼が審議されている問題の核心でした(使徒24:20、21、26:6~8)。それ以外に、パウロが以前の情熱から現在の彼へといかに変わったかを説明できるものは、何もありません。もしイエスが死者の中から復活されなかったら、パウロの宣教は無意味であり、彼もそのことを知っていました(Ⅰコリ15:14~17)。
 その夜、パウロが兵営にいたとき、主が彼の前にあらわれ、励ましました―「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように 、ローマでも証しをしなければならない」(使徒23:11)。状況を考えれば、そのような約束は、パウロにとって特に意義深かったかもしれません。ローマで宣べ伝えたいという彼の長年の願いが、実現するのです(使徒19:21、ロマ1:13~15、15:22~29)。

木曜日:法的手段によってパウロを排除できなかった事実に憤慨した集団が、パウロを待ち伏せして襲い、自分たちの手で殺そうと陰謀(いんぼう)を画策することにしました。
 使徒言行録23:12~17を読んでください。40人以上のユダヤ人がパウロを殺そうと企み、誓いを立てたという事実は、彼がどれほどエルサレムで憎しみを買ったのかを明らかにしています。ルカは、この人たちの正体を記していませんが、彼らは、裏切り者や敵とされる人たちからユダヤ教の信仰を守るためなら手段を選ばない過激派でした。革命的、民族主義的情熱と一体になったそれほどの宗教的熱狂は、西暦1世紀のユダヤとその周辺ではめずらしくありませんでした。
                                           

 今週の学びは、パウロがエルサレムに到着して、民衆から襲われ逮捕される場面について書かれています。この一連のできごとを見ていると、ユダヤ教を信じる人たちから、いかにパウロが憎まれているのかわかりますね。彼はユダヤ教が教えている律法を守ることを求めず、異邦人としてユダヤ人が見ている外国人に伝道するだけでなく、ローマ帝国の各地に住んでいるユダヤ人も改宗させているのです。
 彼が使徒言行録22章で、宮にいたユダヤ人へ弁明をしています。そこで彼は自分のことを「サウロ」と呼んでいます。きっとここに集まっていた方々の中には、昔パウロと一緒にステファノに石を投げた人がいたかもしれません。何よりも自分も同胞などだと彼は言いたかったのでしょう。それは同胞への救いを伝えたいという彼の愛情なのでしょうね。
 その後、彼はローマの市民として遇されて行きます。現在は市民権は、その国で生まれた人にはすべて与えられていますが、当時はちがいました。昔、日本でも選挙権が一部の人にしか与えられていなかったのと同じです。これを見ても、パウロが異邦人伝道に最適な人物であり、神さまが選ばれたのもわかります ね。
エルサレムで逮捕されて、カイザリアに護送された彼への励ましが今週の暗唱聖句です。どのようにしてローマへ到達するかはわからないけれども、神さまは彼をローマでも用いるという約束は、獄中のパウロに希望を与えたことでしょう。