第3課 安河内アキラ

2018年第3期「使徒言行録ー福音の勝利」

第3課              初代教会の生活              7月21日

暗唱聖句
「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」使徒言行録2:46,47
                                           
今週の聖句   使徒言行録2:42~46、使徒言行録4:34、35、使徒言行録3:1~26、使徒言行録4:1~18、使徒言行録5:1~11、使徒言行録5:34~39
                                           
今週の研究
 この2人は一介の無学なガリラヤの漁師でした。それゆえ、彼らの勇気と雄弁さは、そこにいた人たちを驚かせました。指導者たちは気づいていなかったのですが、肝心なのは、イエスがまさに予告しておられたように(マタ10:16~20)、使徒たちが聖霊に満たされていたことでした。

月曜日:使徒言行録3:12~26を読んでください。初期のクリスチャンの説教を特徴づけたのは、おもに次の五つの点でした。①イエスは苦しみのメシアであられた(使徒3:18)。②神はイエスを復活させられた(同3:15)。③イエスは天で高められた(同3:13)。④イエスは再びおいでになる(同3:20)。⑤罪が赦されるには、悔い改めが必要である(同3:19)。
 いろいろな意味で、これは時代背景が変わったとしても、私たちがこの世に伝えているのと同じメッセージです。使徒たちは、宗教を変えるのではなく、古い契約から新しい契約へ根本的に「移行」せざるをえなかったときに、依然としてユダヤ人の枠組みの中にいました。神の民の一員として、彼らはメシアを受け入れ、イエスを真に受け入れることに伴う新生を体験する必要がありました。
 状況は違いますが、現在も依然として、メッセージは基本的に同じです―キリストは私たちの罪のために死に、復活させられ、再び戻って来られるということ。つまりこれは、私たちが救いを見いだせるのはキリストの内である、ということです。黙示録14章の三天使の使命に関しても、イエス・キリストが十字架にかかり、復活し、戻って来られるということが、それらのメッセージを伝える際の中心でなければなりません。

水曜日:ルカは一部始終を記していませんが、アナニアとサフィラの根本的な問題がお金を取っておこうとしたことではなく、共同体内での欺きの行為であったということは、疑いの余地がありません。彼らの罪は、衝動的な行為の結果ではなく、周到に練られた計画、「主の霊を試す」(使徒5:9)意図的な企ての結果でした。彼らは、不動産を売って、そのお金を教会に差し出さねばならない義務を負ってはいなかったのです。それゆえ、彼らがそうすると誓ったとき、たぶん自分たちの利益のためだけに行動していたのでしょう。称賛に値する慈善行為らしきことによって、兄弟姉妹たちの間での影響力を得ようとしていたのかもしれません。
 要するに、終始、彼らは罪 深い行動をしたのであり、罪というのは、たとえ神が直ちに罰を下されないとしても、神の目には深刻な問題であるということです(エゼ18:20、ロマ6:23)。実際、罰がしばしば延期されることによって、私たちは、神がいかに恵み深い方であるかを思い出すべきです(Ⅱペト3:9)。

木曜日:ガマリエルは、イスラエルの近年の歴史の中で、追随者を得て、混乱を引き起こした二つの反対運動を思い起こさせました。しかし、その首謀者たちはいずれも殺され、彼らに従った者たちはすっかり散らされました。彼が得た教訓は次のようなものでした。もしクリスチャンの運動が人間から出たものなら、それはやがて消えるだろうし、一方、もしそれが神の運動であるなら、使徒たちが主張したように、どうしてそれに抵抗したいと望みうるだろうか。ガマリエルの助言は、説得に成功しました。使徒たちは鞭むちで打たれ、もう一度、イエスの名によって語ってはならない、と命じられたのでした。
                                           

 今週の学びは初代教会の時代です。きっとこの時期の教会は、まだ発展途上でしたが、とても生き生きと活動していたのではないでしょうか。多くの魂が救われること、これは教会を活気づけますね。そして何よりも聖霊の導きを受けて教会は強められていたことでしょう。
 水曜日にアナニヤとサフィラ夫妻のできごとが記録されています。引用文では彼らに対して厳しく書かれています。けれどもわたしたちも同じような想いにかられることはないでしょうか。教会の必要が訴えられて、それに心が動かされて・・・、けれども冷静に考えてみたら、考え直したということはないでしょうか。
 わたしたちは主の業のためにささげることの重要性はよくわかっています。同時に自分の生活は自分で守らねばならないことも忘れてはいけません。そのバランスを考えて、ささげることの決断をしなければなりません。
 また、彼らが献金をすることで称賛を得ようとしたのではないかと書かれていますが、献金は動機が大切です。心から支援したい働きを選び、祈りつつ支援の決断をしたいものですね。わたしもいくつかの団体に定期的に献金を送っています。どの働きもすばらしいし助けが必要なのはわかりますが、自分が定期的に応援できそうな働きを選んで献金をしています。災害支援などを別にして、息の長い支援をして行くことは、活動を支えることになるのです。献金は、わたしたちが自宅に居ながら活動を支えることができる働きです。あなたができる支援を考えてみてください。