第8課 安河内アキラ

2018年第3期「使徒言行録ー福音の勝利」

第8課               エルサレム会議              8月25日

暗唱聖句
「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」使徒言行録15:11
                                           
今週の聖句   使徒言行録15 章、ガラテヤ2:11~13、出エジプト記12:43~49、ローマ3:30、レビ記18:30
                                           
今週の研究
使徒言行録15 章は、その全体が、臨界値に達した異邦人問題と、解決策を見いだすために教会が協力したことを扱っています。エルサレム会議は、世界宣教との関連において、使徒教会の歴史上、一つの転換点でした。

日曜日:当初から、アンティオキア教会は、(ギリシア語を話す)ユダヤ人と割礼を受けていない異邦人から構成されており(使徒11:19~21、ガラ2:11~13)、どうやら彼らは穏やかな交わりの中で生きていたようです。ところが、エルサレムからやって来た信者の一団の到着によって、その交わりが壊されてしまいました。
 使徒言行録15:1~5を読んでください。ユダヤ出身で、伝統的に「ジューダイザー」と呼ばれていた人たちは、5節で「ファリサイ派から信者になった人」と身元が明かされている人たちと、たぶん同じ人たちでした。私たちは、教会にファリサイ人がいたことに驚くべきではありません。なぜなら、パウロ自身が回心する前はファリサイ人だったからです(フィリ3:5)。この一団は、彼らの意志でアンティオキアに行ったようですが(使徒15:24)、しばらくのちにアンティオキアで起こったもう一つの出来事は、使徒を含むほとんどのユダヤ人が、割礼を受けていない異邦人が教会にいることをあまり快く思っていなかったことを示しています(ガラ2:11~13)。
 彼らの主張は割と単純で、もし異邦人が割礼を受けず、ユダヤ人のほかの礼典律をすべて守らないのなら、彼らは救われない、というものでした。救いは神の契約の共同体の中にのみ見いだされるべきものであり、旧約聖書に従えば、割礼による以外に神の選民の一員になる方法はないと(創17:9~14、出12:48)、彼らは信じていました。要するに、異邦人は、まずユダヤ教の改宗者になる場合に限って救われる、ということです。

月曜日:ローマ3:30、Ⅰコリント7:18、ガラテヤ3:28、5:6を読んでください。異邦人はまずユダヤ教徒にならなければ救われない、と言うことによって、これらの人たちは、二つの別個の概念、つまり契約と救いを混同していました。神の契約の共同体の一員になることは、救いを保証しませんでした(エレ4:4、9:25)。加えて、アブラハムが救われた(義とされた)のは信仰によってであり、それは、彼が割礼を受ける前のことであり、割礼によったのではありませんでした(ロマ4:9~13)。救いは常に信仰によりましたが、契約は恵み深い規定であり、それを通して神は、御自分と救済計画とを世界中に知らせようとなさったのです。イスラエルは、その目的のために選ばれたのでした(創12:1~3)。
 しかし問題は、契約と救いがあまりにも密接に関係しているために、この信者たちが割礼を価値あるものとみなすようになったことでした。しかし神の救いの恵みは、人間の業わざが作用する場所では作用しません。それゆえ、信者である異邦人に救いの手段として割礼を強制することは、福音の真理をゆがめ(ガラ1:7、2:3~5)、神の恵みを無にし(同2:21)、イエスを役に立たなくしてしまうのです(同5:2)。さらに、それは救済の普遍的特徴の否定でした(コロ3:11、テト2:11)。パウロはこの種の考え方に決して同意できませんでした。

水曜日:しかし、「使徒教令」は、一時的なものでもなければ、(旧約聖書に関連するほかの規範を排除した)キリスト教倫理の新しい規範でもありません。実際には、聖霊の導きの下(使徒15:28)、教会の使徒と長老たちが、イスラエルの外国人居留者にだけ関係するレビ記17章から18章の規定を再構成したものです。
 レビ記の状況下では、これらの禁止事項は異教の放棄を意味しました。イスラエルに住みたいと望む外国人は、だれであれ、彼らが慣れ親しんできたそのような異教の風習を捨てなければなりませんでした(レビ18:30)。同様に、教会に加わりたいと望む信者の異邦人は、だれであれ、異教に対して毅然たる態度を取るように要求されたのです。
                                           

木曜日:手紙が読まれると、(異邦人改宗者は割礼を要求されないという)励みとなるメッセージのゆえに、教会は大きな喜びであふれました。彼らは手紙の要求(四つの禁止条項から成る使徒教令)に異議を唱えもしませんでした。こうして、初代教会における最初の最も深刻な分裂は、少なくとも理屈の上では和解しました。
 会議の終了時に、パウロの福音はエルサレムの教会指導者たちによって完全に認められ、彼らはパウロとバルナバに、受容と信頼のしるしとして友情の右の手を差し出しました(ガラ2:9)。しかし、ユダヤの律法に従って生き続けたそのユダヤ人クリスチャンたちは、どう見ても儀礼的に汚れている異邦人と食卓をともにすることを依然として強く問題視していました。
 この問題は、例えば、ペトロを巻き込んだガラテヤ2:11~14の事件でもあらわれています。「弟子たちでさえ、全部が会議の決定をよろこんで受け入れる気持ちになったのではない」(『希望への光』1430ページ、『患難から栄光へ』上巻212ページ)。
                                           

今週は、エルサレム会議について学びます。今週の研究の箇所の終わりに書かれていますが、この会議は世界宣教への転換点でした。ユダヤで起こったユダヤ教の分派が、全世界に広まっていくために、必要な会議だったのです。
 キリスト教会は、強い指導者の一声で何かが決まる組織ではありません。昔も今も、集まってともに祈り、そしてみこころを求めて、決定をしています。エルサレム会議は、そのような最初の大きな会議でした。
 この問題点は、異邦人がクリスチャンに改宗する際に、何を求めるかでした。それについては引用文の日曜日と月曜日を参照ください。使徒言行録15章のエルサレム会議では、きっと活発な議論がなされたことでしょう。記録はそのまとめの部分でペトロが自らのあかしをして、最後のヤコブが議論をまとめたところしか記録されていません。
 これによって改宗者に何を求めるか、教会の立場ははっきりしましたが、今日のようにそれを一度に伝えるような方法はありません。この問題は、今後の大きな問題となって行きます。パウロの手紙で、彼が行いではなく信仰による義を強調し続けているのは、この問題を教会が理解するようになるためだったのです。このパウロ書簡の背景を理解しておかないと、義認だけを強調するようになり、彼のメッセージが正しく伝わりません。
 この行いと救いの関係については、いつの時代でも教会では問題になっていますね。救いを与えるのはキリストの十字架のみです。しかし行いを清めることによって、わたしたちは神さまの器として働くことができ、また神さまと離れることなくつながり続けて行くことができるのです。