第11課 聴覚しょうがい者用:藤田 昌孝

2018年第4期「キリストにおける一致ー他者と調和しつつ生きる」

第11課           礼拝における一致             藤田 昌孝

(ルビ付きの原稿はPDFからご覧いただけます)

 「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」使徒2:41、42
 バプテスマを受けたばかりの人々が信徒の交わり(教会)で何をしていたでしょうか。
 「学び」と「交わり」と「礼拝」と「祈り」です。
 私たちはいったい何をしに教会に集うのでしょう? 自分の願いをかなえてもらおうとして教会に訪れた人が、願いがかなえられたとたんに教会に来なくなるということは時々あります。様々な理由で教会に来られた方々もやがては「学び」「交わり」「礼拝」「祈り」「学び」を目的として教会に集えるようになれば幸いです。

1.日曜日:私たちの創造者、贖い主を礼拝する
 「御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」詩篇29:2
 礼拝とは礼賛と感謝を神様にお捧げする行為です。私ごとですが、私は神様に感謝することはしますが、「主の名を賛美する」とか「主のご栄光をたたえる」ということについてはあまり頻繁にはしていない気がします。一つの理由として、私の祈りの多くが、公私にわたって願い事が多いからです。主の名をたたえる時間がその割には少ないのです。主をたたえることを意識してゆきたいと思います。
 さて、私たちは何を思って神様に礼賛と感謝をお捧げするのでしょうか?それは神様のなしてくださった創造と救いです。それを十全に表して下さった方がイエス様です。ですから私たちは創造と救いの記念日である安息日に、イエス様をお礼拝するのです。

2.月曜日:偽りの礼拝
 「また、わたしは、彼らにわたしの安息日を与えた。これは、わたしと彼らとの間のしるしとなり、わたしが彼らを聖別する主であることを、彼らが知るためであった」エゼキエル20:12。
 私たちの信仰は私たちの行動によって育まれます。行動の伴わない信仰は衰えてゆきます。私たちは信仰によって救われますが、その信仰を維持してゆくには、行動が必要です。安息日を守ること、それは私たちが神様に創造された者、神様に救われた者であることを覚えるしるしなのです。
 ローマ・カトリックはこのしるしをカトリックの十戒から取り除いてしまいました。安息日という言葉を取り除き、その変わりに「主の日」という言葉に変えてしまったのです(日本語訳では安息日は残っていますが、英語では「主の日」に変えられています)。それによってカトリックは礼拝日を日曜日に変えてしまいました。ローマ・カトリックの権威によってそれを行ったのです。私たちは、人の権威に従うべきでしょうか? それとも聖書の権威に従うべきでしょうか。

3.火曜日:第一天使の使命
 大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい」黙示録14:7
 「裁き」とはいったい何でしょう? それは区別されることです。何が正義で何が悪か、善悪が明らかにされることです。神様は愛と正義の方であり、悪魔は偽り者であることが明らかにされることです。
 現在、世界は「宗教多元主義」を打ち出し、全ての宗教をそのまま一つにしようとしています。「登山口は多々あるが頂上は一つ」「宗教は多々あるが、神は同じ」と言うのです。
 はたしてそうでしょうか? 聖書ははっきりと語ります。「天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい」。終わりの時代には二つのグループしかありません。一つは真の神様を礼拝するグループ、もう一つは様々な偶像、龍と獣とを拝むグループです。

4.水曜日:聖書研究と交わり
 「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」ルカ24:27
 最初の教会員たちは何をテキストにして救い主を学んだでしょうか? イエス様は何をもってご自身を説明されたでしょうか? それは旧約聖書です。
 イエス様の弟子たちは救い主の奇跡をたくさん見て来ました。しかしイエス様が逮捕されるやいなや、イエス様を疑います。
 ところがイエス様の復活後、弟子たちは自分の命にかけてイエス様を伝え始めます。何が弟子たちをかえたのでしょう?考えられる理由は少なくとも三つあります。①イエス様の復活をその目で見た。②聖霊を受けた。③イエス様との聖書研究です。
 私たちは聖書研究を通して正される必要があります。なぜなら「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある」(箴言14:12)からです。

5.木曜日:パンを裂くことと祈り
 「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」ルカ22:19
 弟子たちはイエス様の教えを守り、パンを分け合いながら、イエス様の十字架の贖いとイエス様のご再臨を覚えてました。
 また、弟子たちは祈りに熱心でした。祈りは神様を私たちの所まで引き下げるのではありません。私たちが神様に向かって引き上げられるのです。祈りの中で、私たちの願いは神様の願いと一致してゆきます。それはちょうど磁石に引きつけられた鉄が、自ら磁力を持つようになるのと似ています。最初のアダムとエバは神様に似ていました。祈りの中で私たちも主の御姿に回復されてゆくでしょう。

 一人の少年が1か月かけて、ヨットのラジコン模型を作りました。ところが湖に浮かべて航海しているうちに見失ってしまいます。
 ある日、町を歩いていると、ある模型屋のウィンドウに自分のヨットが飾られていました。ヨットは誰かが拾って店に売りに来たそうです。「このヨットは、ぼくが作ったので返してくれませんか?」「ぼうや、それはできない。私はこのヨットを高いお金で買っているからね」「わかりました、では待っていてください」。少年は急いで家に帰り、自分の貯金をすべて持って、お店に戻りました。そしてヨットを買い戻したのです。少年は大事そうに、ヨットを抱きしめながら、つぶやくのです。「お前は2倍ぼくのもの」「お前は2倍ぼくのもの」「最初に僕がお前を作ったから。そしてもう一度、ぼくがお前を買い戻したから」。
 神様も安息日、同じように言ってくださるにちがいありません。「お前は2倍私のもの、最初に私が造ったから。そしてもう一度買い戻したから」。