第12課 安河内アキラ

2018年第4期「キリストにおける一致ー他者と調和しつつ生きる」

第12課            礼拝における一致            12月22日

暗唱聖句
「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」マタイ20:26、27
                                           
今週の聖句   エフェソ5:23~27、マタイ20:25~28、テトス1:9、マタイ16:19、ガラテヤ6:1、2、マタイ28:18~20
                                           
今週の研究
 教会は、福音をこの世に広めるためにイエスが創造された組織です。組織は、それが教会の宣教を強固にし、可能にする限りにおいて重要です。教会組織がなければ、イエスの救いのメッセージは、これほど効果的にほかの人たちへ伝わりませんでした。教会の指導者たちも、彼らが一致を促進し、イエスの模範を体現するという点において重要です。
 私たちは今週、なぜ教会組織が宣教にとって不可欠なのか、いかに教会組織が教会の一致を促進するのかということについて学びます。

火曜日:Ⅱテモテ2:15、テトス1:9を読んでください。パウロが教理や教えを純粋に守ることをどれほど重んじているかに注目してください。このことは一致にとって不可欠です。なぜなら、何にも増して、私たちの教えは私たちの教会を一致させるものだと言えるからです。重ねて言いますが、アドベンチストとして、つまり実にさまざまな職業や社会的地位、文化、背景を持つ人々として、キリストにおける私たちの一致は、キリストから与えられた真理の理解の中に見いだされます。もし私たちがこういった教えに関して混乱するなら、とりわけ終わりに近づいているので、混乱と分裂だけがもたらされるでしょう。
 テモテは教える働きの一部として、とがめ、戒め、励まさねばなりません。これらの動詞は、聖書によって与えられる導きを思い起こさせます(Ⅱテモ3:16)。明らかにテモテの働きは、彼が聖書の中に見いだしたことを守り、教え、実行すること、しかも辛抱強く、忍耐しつつそうすることです。辛しんらつ辣で厳しい叱責によって、罪人がキリストのもとへ行くことはめったにありません。パウロが書いたことに従い、しかも聖霊の導きのもと、仕える指導者の態度を持ちつつそれに従うことによって、テモテは教会における力強い求心力となるのです。

木曜日:マタイ28:18~20においてイエスは、この世への宣教に関する最後の指示を弟子たちにお与えになりました。この弟子たちへのイエスの大宣教命令には、4つの鍵となる動詞が含まれています―「行って」「弟子にし」「洗バプテスマ礼を授け」「教えなさい」。ギリシア語の文法によれば、これらの節における本動詞は、「弟子に(する)」であり、ほかの三つの動詞は、それがいかにしてなされうるのかを示しています。つまり、弟子が生まれるのは、信者が福音を宣べ伝えるためにあらゆる国へ行って、人々にバプテスマを授け、イエスが言われたことを守るよう彼らに教えるときなのです。
 教会がこの命令に応えるとき、神の国は広がり、あらゆる国のより多 くの人が、イエスを救い主として受け入れる人々の仲間に加わります。バプテスマを受け、教えを守るようにというイエスの命令に彼らが従うことで、新しい世界的家族が生まれるのです。新しい弟子たちも、彼ら自身がさらなる弟子をつくるときに、日々イエスの存在を確信します。イエスの存在は、神がともにおられることの約束です。マタイによる福音書は、イエスの誕生が「神は我々と共におられる」(マタ1:23)ことにほかならないという告知で始まり、イエスが再臨までずっと私たちとともにいてくださるという約束で終わっています。

金曜日:「優れた指導の原則は、教会を含め、あらゆる種類の社会に適用できる。しかし教会の指導者は、指導者以上のことが必要である。そして仕える者であることが必要である。
 指導者であることと、仕える者であることとの間には、明らかに矛盾がある。いかにして人は、指導すると同時に仕えることができるのだろうか。指導者は名誉ある地位を占めていないだろうか。指導者は命令し、ほかの人たちが従うことを期待していないだろうか。では、いかにして指導者は、仕える低い地位を、つまり命令を受け、実行する低い地位を占めるのだろうか。
 この矛盾を解決するためには、イエスに目を向けなければならない。彼は、仕える指導の原則を最高の形で示さ れた。彼の一生は奉仕の一生であった。その一方で、彼は、この世が目撃した最大の指導者でもあったのである」(G・アーサー・キーオ『今日の私たちの教会』106ページ、英文)。
                                           

 聖書は、指導者は仕える者になれと教えています。今わたしは特別養護老人ホームの責任を負っています。パートも含めて200名弱の職員がいる職場において指導者となっています。個人的には体を動かすこと、そして困っている現場の最前線へ行くことが好きで、できることを一生懸命にやってきましたが、ある時に総務の職員から「施設長は動かないください」と厳しく言われてしまいました。たしかにわたしの仕事は現場で何かをするよりも全体を把握して指揮を出さねば施設全体は混乱してしまいます。
ここで指導者は仕えるとは、どのようなことを言っているのでしょうか。それは上に立って権力をふるうのではなく、自分の役割を通してみなさまに仕えること、それだけでなく神さまに仕えているものとして決断をくだすことではないでしょうか。少なくともこの二つを忘れないでいたら、結論は異なるのではないでしょうか。そして指導者となると、様々な現実の厳しさの前に神さまを見上げることを忘れてしまったり、逆に順調に物事が推移する時には有頂天になる危険があるために、このような教えがなされているのです。
 今期の教課には、一致するためにはキリストを見上げることと繰り返して書かれています。キリストの模範に心を向けることができれば、わたしたちが一致のための道が見えてくるのではないでしょうか。