第2課 安河内アキラ

2018年第4期「キリストにおける一致ー他者と調和しつつ生きる」

第2課               創造と堕落                10月13日

暗唱聖句
 「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め」 箴言9:10
                                           
今週の聖句   申命記28:1~14、エレミヤ3:14~18、士師記17:6、列王記上12:1~16、Ⅰコリント1:10~17、使徒言行録20:25~31
                                           
今週の研究
神の御旨に従うことは、人々の間に調和を生み出し、ほぼあらゆる方向から彼らを取り囲んでいた異教や不道徳な礼拝習慣の侵入を防ごうとする共同体の意思を強固にするのです。神の意図は、御自分の民がきよくあり、周囲の国民に対するあかし人となることでした。

日曜日:エレミヤの言葉は、神の言葉が無視されていた時代に語られました。ヨシヤ王の時代に改革がいくらか始められましたが、ほとんどの人は神に忠実に従う霊的衝動に駆られていませんでした。彼らの罪、偶像礼拝、自己中心な生き方が、霊的、政治的崩壊を引き起こしていたのです。神の御旨を行うことから退けば退くほど、未来の展望は、より恐ろしいものになるのです。しかし、神はエレミヤを通して嘆願されました。神は彼らのためにより良い未来を考えておられ、繁栄、一致、健康を取り戻すことを望まれたのです。しかしそれは、彼らが信仰と、真の信仰に伴うものによって生きる場合にのみ、実現するのでした。

水曜日:パウロはコリントの信徒たちに、クリスチャンが召されるのはキリストに従うためであって、人間に(たとえ、どれほどその人に能力や才能があったとしても)従うためではないことを思い出させます。彼らは「党派」によって自分たちを分けていたようですが、使徒は、そのような区別はキリストの御心にかなっていない、と明快に述べました。クリスチャンの一致は、キリストと、十字架における彼の犠牲を中心にしたものだと、彼は主張しています(Ⅰコリ1:13)。
 クリスチャンの一致は、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストの中にだけ見いだされ、ほかのだれの中にも(たとえ、その人がいかに「価値ある」助言者、説教者、指導者であったとしても)見いだされません。そのように、クリスチャンの一致の源は、真理の中にあります。十字架の下では、私たちはみな平等です。私たちのバプテスマは、イエスの中に入ることであり、彼だけが私たちを罪から清めることがおできになります。しかし、私たちは実際的な方法で、キリストにおける一致に向かって努力しなければなりません。
 このことから言えるのは、私たちアドベンチストは、信仰や宣教の一致を当然のものと考えることはできないということです。もしキリストの愛と支配権が私たちを彼に結びつけなければ、仲違いや争いは、私たちの教会の一致も損ねうるのです。

木曜日:Ⅱテモテ2:14~19、3:12~17を読んでください。第一に、テモテは聖書を知り、「真理の言葉を正しく伝え」(Ⅱテモ2:15)なければなりません。無用な議論や空論に対する防御手段は、神によって与えられた言葉を正確に理解し、教えることです。聖書の真理は、正しく理解されなければなりません。聖書のどの部分も、聖書の中で示されている全体像と食い違う形で示されないようにし、またイエスに対する信仰を失わせるかもしれない誤った解釈を防ぐためです。見当はずれなことや二次的問題よりも、キリストにおける勝利の人生を送るよう信者を備えさせる神の御言葉の原則が優先されるべきです。
 テモテに対するパウロの第二の勧告は、「俗悪な無駄話を 避け(る)」(Ⅱテモ2:16)ことです。つまらない空論的な話題は、もしテモテが尊敬すべき忠実な牧師であると思われたいのなら、彼の教えの働きの一部になるべきではありません。こういった種類の会話は、さらなる不信心をもたらすだけで、信者の信仰を向上させません。真理だけが、信者の中に信心深さと調和をもたらします。テモテがこのような誤りを避け、人々にも避けるように促さねばならない理由は、それらが病気のように教会内で広がるからです(同2:17)。結局のところ、神の言葉に忠実であることが、教会の一致を脅かしうる偽りの教え(同3:14~17)に対する防御手段なのです。
                                           

今週の学びで、旧約の時代でも、そして新約の時代でも同じように一致について語られているのは、いつの時代でもこの問題が生じていたのだと思います。水曜日と木曜日の引用文の最後に大切なことが書かれています。「私たちアドベンチストは、信仰や宣教の一致を当然のものと考えることはできないということです。もしキリストの愛と支配権が私たちを彼に結びつけなければ、仲違いや争いは、私たちの教会の一致も損ねうるのです。」「結局のところ、神の言葉に忠実であることが、教会の一致を脅かしうる偽りの教え(同3:14~17)に対する防御手段なのです。」この原則はいつの時代もかわりません。
 施設の責任を負うことになって二年目を迎えました。いろいろな問題が次々に起こります。その時に、かつての尊敬している責任者だったら、どのような判断をしていただろうといつも考えています。そのように、問題を前にして、問題に相対してしまうのではなく、まわりから広い視野で見ることよって解決の糸口が見つかる場合があります。
 いつの時代でも、自分の想いで何かを成し遂げようとするのではなく、心から神さまの声を聴こうとする時に、道が開かれて行くのではないでしょうか。そしてそのような道が、一致へとつながっていくのです。